チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・番外編・1

 チョムスキー 時事コラム・コレクション・番外編・1

 

もしニュルンベルク諸原則を適用したら…

 

今回はコラムあるいはエッセイではなくて、ある集会での発言を文字に起こしたものであるらしい。
そういう理由で、本ブログでは、「番外編」としておいた。

内容は第二次大戦後の米国歴代政権・歴代大統領への批判。ニュルンベルク裁判と東京裁判の批判もふくむ。

(なお、くだけた席における発言のせいか、内容に事実誤認もしくは不正確と思われる箇所がある。末尾の「その他の訳注・補足など」を参照。また、そういう場合の常として、言葉のくり返しや論理的につながらない点なども見受けられる)

原文サイトは
https://chomsky.info/1990____-2/

初出は不明。

原題は
If the Nuremberg Laws were Applied…
である。

the Nuremberg Laws は、この場合、「ニュルンベルク諸原則」を意味する。
ニュルンベルク諸原則」とは、
第二次世界大戦後、ドイツのニュルンベルクで行われた国際軍事裁判で、裁判所条例および判決によって認められた国際法の諸原則」(日本大百科全書(ニッポニカ))
である。
侵略戦争や直接間接に侵略に関連する行為、集団殺害、一般人民に対する非人道的行為および戦争法規の違反を国際犯罪とし、責任ある個人は処罰されるべきこと」(同上)
を謳った。

(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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もしニュルンベルク諸原則を適用したら…


ノーム・チョムスキー

初出は不明。1990年頃のある集会での談話と思われる。

 

もしニュルンベルク諸原則を適用したら、第二次大戦後のアメリカ大統領は一人残らず絞首刑になっていたでしょう。
私がここでニュルンベルク諸原則に違反する行為とするのは、ニュルンベルク裁判において人々が絞首刑に処されるもととなった罪科と同じ種類の犯罪行為を意味します。また、ニュルンベルク諸原則はニュルンベルク裁判と東京裁判の双方に依拠するものとします。
さて、そこで、皆さんにはまずニュルンベルクや東京の裁判において、人々がいかなる罪科で絞首刑を宣せられたかをふり返っていただかなければならない。が、いったんふり返ってみさえすれば、この問題は寸毫の時間さえ要しません。
たとえば、東京裁判-----もっとも劣悪な裁判でした-----において被告であった軍将校の一人、山下奉文陸軍大将は、法的には自分の配下であるフィリピンの部隊が蛮行を働いたとの廉で絞首刑を宣せられました(戦争のごく終局に近い時期のことであり、現地との連絡は途絶えていました。戦争の最後の最後の段階で、フィリピン方面には多少の部隊が残って活動を展開していましたが、山下大将は彼らとの連絡を欠いていました)。とにかく、そういう次第で、絞首刑に処せられたのです。
さて、このような点について検討してみてごらんなさい。この点に限っても、死刑宣告をまぬがれる大統領は一人もいません。

しかし、ここで、ニュルンベルクと東京の軍事裁判の中核にもう少し近づいてみましょう。東京裁判がおこなわれた当時の米国大統領トルーマンに関してです。
東京裁判には、その任にふさわしい、自主独立的なアジア人の判事が参加していました。インドの生まれで、判事の中で国際法の素養を積んでいた唯一の人物でもありました(原注: ラダ・ビノード・パール判事を指す)。
彼は他の判事全員と意見を異にしていました。この裁判のいっさいがっさいに異議を申し立てました。
非常に興味深い、貴重な反対意見書を彼は作成しています。700ページにわたるものです。皆さんはそれをハーバード大学法学図書館で見つけることができます。私もそこで見つけました。もっとも、他の場所でも見つけられるでしょうが。すこぶる興味深い読み物です。
その判事は裁判記録を綿密に読み込みました。そして、私にはきわめて説得力があると感じられるのですが、この裁判が実に不合理なものであることを浮き彫りにしています。
彼は、大要、以下のような言葉で締めくくっています。
もし太平洋戦争において、ナチの犯した犯罪-----ナチ党員がそのためにニュルンベルク裁判で絞首刑を宣せられた犯罪-----に匹敵する犯罪があるとすれば、それは2度の原子爆弾投下である。そして、その種の事象はいっさい、当該の被告人たちの責に帰することはできない、と。
どうでしょう、筋の通った論だと私には思われます。当時の事情を考慮にふくめれば。
第二次大戦後、トルーマンギリシア国内で大規模な内乱鎮圧作戦を展開しました。約16万もの人間が殺害され、約6万人が難民となり、同じく約6万人が拷問を受け、既存の政治体制は解体され、右派政権が成立しました。米国の企業がなだれ込み、それを乗っ取りました。
これらのことは、ニュルンベルク諸原則の下では犯罪であると私は考えます。

さて、アイゼンハワー大統領についてはどうでしょう。
彼のグアテマラ政府打倒が犯罪であるか否かを論じてみてください。CIAが後押しする軍がいて、米国の脅しと爆撃等々のさなかで介入し、グアテマラの資本主義民主制の土台を弱体化しました。私には、これは犯罪だと思えます。1958年のレバノン派兵はいかがでしょう。私は事情に通じていませんが、皆さんは議論してみてください。たくさんの人々が殺害されました。イラン政府の転覆もやはり犯罪です。CIAが支援したクーデターによってそれは実現しました。しかし、アイゼンハワー大統領については、グアテマラの件だけで十分です。ほかにも数々あるとはいえ。

ケネディ大統領となると、むずかしい点はほとんどありません。キューバ侵攻はあからさまな先制的武力攻撃です。もっとも、それを計画したのはアイゼンハワー大統領でした。つまり、アイゼンハワーは、他国に侵攻する共同謀議に加わっていたということです。これもまた、彼が積み重ねた得点に加えておきましょう。
キューバ侵攻が失敗に終わった後も、ケネディは同国に大規模なテロ作戦をしかけています。それは実に熾烈きわまるものでした。まったく冗談ごとではありません。産業施設を爆撃して多数の死傷者が出ました。ホテルにも砲撃を加えました。漁船を沈めました。破壊工作をおこないました。後のニクソン政権の下では、家畜などを毒物で汚染することさえやりました。言語道断です。それから、ベトナムケネディベトナムに侵攻しました。1962年に南ベトナムに攻撃をしかけた。米国空軍を派遣して空爆を開始したのです。そう、ケネディについてはこれで十分でしょう。

ジョンソン大統領に関しては特に問題はありません。ドミニカ共和国への軍事介入を勘定に入れずにおいても、インドシナ戦争だけでもりっぱな戦争犯罪です。

ニクソン大統領も同様です。彼はカンボジアに侵攻しました。ニクソンキッシンジャーのペアによる1970年代初頭のカンボジア空爆は、クメール・ルージュの残虐行為と極端にへだたっているわけではありません。規模はいくぶん小さかった、けれども、かなりの差があったわけではない。ラオスについてもそうです。ニクソンキッシンジャーに関しては、ほかにいくらでも挙げることができます。悩むような事情はありません。

フォード大統領は在任期間が非常に短かった。そこで、たくさんの犯罪行為に手を染めるヒマがありませんでした。けれども、どうにか大きなものを一つやり遂げました。インドネシア政府による東ティモール侵攻を支援したのです。それはジェノサイド(特定民族殲滅)に近いものでした。つまり、これと比べるならば、フセインクウェート侵攻などはささやかなパーティーのように思えるレベルです。米国はこの東ティモール侵攻を確固として支持しました。外交面での支援、軍事的に必須の支援はいずれも主に米国が担いました。これはカーター政権にも引き継がれました。

カーター大統領はアメリカの大統領の中ではもっとも非暴力的な人間でした。とは言え、私が思うに、はっきりとニュルンベルク諸原則に反するふるまいをいくつかしています。たとえば、東ティモールに対するインドネシア政府の残虐行為がまさしくジェノサイドの域に達しようとしていた時に、インドネシアへの米国の援助はカーター政権の下で増大しました。それは1978年にピークを迎えますが、残虐行為のピークもまた同じ時期なのです。カーターについては、これでおしまいにしましょう。ほかにいろいろ挙げられるにせよ。

レーガン大統領-----彼については問題ありません。という意味は、中米の件だけで話が済むからです。イスラエルによるレバノン侵攻を支持した件も、死傷者数や破壊の規模の点で、これまたフセインの所業をごくちっぽけなものに思わせるものです。これでたくさんです。

ブッシュ大統領はと言えば、あれこれ論ずる必要があるでしょうか。レーガン政権時代に国際司法裁判所の判決もありました(訳注: いわゆる「ニカラグア事件判決」)。その中で「不法な武力行使」と表現されているふるまいに関し、レーガンとブッシュの両氏が非難されています。

要するに、皆さんは米国大統領の幾人かについてあれこれ論じることは可能ですが、結局のところ、相当に強力な主張が成立するでしょう-----もしニュルンベルク諸原則に、つまり、ニュルンベルク裁判と東京裁判に照らしてみれば。そして、その裁判において人々がどのような咎で糾弾されたかを問うてみれば。私が思うに、米国の大統領は十分に絞首刑に値するのです。

しかしながら、同時にまた、ニュルンベルク諸原則に対しては、きびしい目を向けるべきであることも言っておかなければなりません。ニュルンベルク諸原則が高潔、厳正、等々のお手本であるかのごとく言うつもりは私にはありません。
一つには、それは事後法、事後の対応でした。ニュルンベルク諸原則に反する行為とは、戦争が終わってから、その勝者によって犯罪と見なされたものでした。この点だけでもすでに疑問を抱かしめます。米国大統領の件に関しては、事後の対応ということにはなりませんが。
また、何をもって「戦争犯罪」と見なしたのか、とみずからに問うてみなければなりません。ニュルンベルク裁判、東京裁判において、どのようにして戦争犯罪であるか否かが決定されたのか。その答えはまことに単純でありました。そして、あまり得心のいくものではありません。
あるモノサシがありました。言わば実際的な運用基準といったものです。もし敵側がそれをおこない、われわれの側がそれをおこなったことを敵側が示せなければ、それは戦争犯罪ということになりました。そういう次第で、人口密集地たる都市への爆撃などなどは、戦争犯罪とは見なされなかった。なぜなら、ドイツや日本よりもわれわれの方が数多くそれをおこなったからです。そういうわけで、それは戦争犯罪ではない。東京をガレキの地に変じたい? ところが、東京はすでにガレキの地と化していました。そこで、もう原爆を落とすことができない。落としたところで何も変わりがないからです。東京に原爆が落とされなかったのはまさしくそれが理由です。原爆投下自体は戦争犯罪ではない。なぜなら、それをおこなったのはわれわれだからです。ドレスデン爆撃も戦争犯罪ではありません。われわれがやったからです。
ドイツの海軍元帥、カール・デーニッツ氏は、民間商船を沈めたとかなんとかの廉で罪に問われました(同氏は潜水艦の艦長か何かでした)。その時、弁護側の証人として、米海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督が引っぱり出されました。提督は、米国もドイツとまったく同じようなふるまいをしたと証言しました。というわけで、デーニッツ氏は窮地を脱した。この点では、氏は無罪放免となったのです。
実際、もし皆さんが裁判の記録をすみずみまで丁寧に目を通してごらんになったら、得心がいくことでしょう。戦争犯罪とは、われわれは相手の責任を追及することはできるが、相手はそうできない、そういう類いの犯罪行為の謂いである、と。さて、そういうことで、この点もまた人の心に疑問を抱かしめます。

実際のところ、この点に関しては、興味深いことに、関係者がごくおおっぴらにそれを口にしており、しかも、それには理があると見なしているのです。
ニュルンベルク裁判の主席検事はテルフォード・テイラー氏でした。ご存知の通り、まっとうな人物です。同氏は『ニュルンベルクベトナム』なる著作を上梓しました。その中で、ベトナム戦争においてニュルンベルク諸原則にかかわる犯罪行為があったかどうかを探究しています。予想されることながら、否というのがその答えです。けれども、同氏がニュルンベルク諸原則をどのように了解しているのかは、興味深い問題です。

戦争犯罪とは今、私が述べたようなものでした。実を言えば、そういう捉え方を私はテイラー氏から拝借しているのです。もっとも、同氏は別にそういう捉え方を批判の意味をこめて述べているわけではありません。同氏が言うには、とにもかくにも、それがわれわれのやり方だった、そしてまた、そういう風にやるべきことだった、ということです。
これについては、『イェール・ロー・ジャーナル』に論文が載っています[原注: 『レビュー・シンポジウム: 戦争犯罪、国際問題における力の支配』。『イェール・ロー・ジャーナル』巻80、ナンバー7、1971年6月]。この論文は一般書籍にも再録されています[原注: チョムスキー著『For Reasons of State』(パンテオン社、1973年刊)の第3章]。興味がある方は読んでみてください。

ニュルンベルク裁判、とりわけ東京裁判に関しては、多くの疑問が発せられてしかるべきだと私は思います。東京裁判にはおかしな点がいろいろありました。東京裁判で罪を問われた人々のやったことは、罪を問うた側の人間の多くもやったことでした。
また、サダム・フセインの例とまったく同じように、アメリカは、彼らのおかした他の残虐きわまる行為の数々を気にとめませんでした。たとえば、1930年代後半に日本軍がおこなったいくつかの無道なふるまいなどです。それらに米国は特に関心を寄せなかった。米国が気にかけていたのは、日本が中国の市場を独占する方向に動いていたということでした。それは許されなかった。しかし、南京における数十万の人間の殺戮その他の残虐行為はそうではない。それはたいした問題ではなかったのです。


CHOMSKY.INFO


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[その他の訳注・補足など]

■原文中の事実誤認または不正確と思われる箇所その他について。

たとえば、原文に出てくる Tokyo trials は通常「東京裁判」(または「極東国際軍事裁判」)と訳される。
しかし、冒頭部分で言及されている山下奉文大将が裁かれたのは「マニラ軍事裁判」であって、これはふつう「東京裁判」にはふくまれない。
チョムスキー氏の勘違いであるか、あるいは、ここはチョムスキー氏独自の捉え方で、Tokyo trials を、「東京裁判を代表とするが、それにとどまらず、第二次世界大戦に関する、極東アジアでのすべての軍事裁判」という意味での、つまり総称として、用いているのかもしれない。

しかし、そのような小さな瑕疵があるとしても、チョムスキー氏の発言の主旨-----第二次大戦後の米国歴代大統領は、ニュルンベルク諸原則にしたがって裁けば、全員が絞首刑を宣せられておかしくない重罪人(たとえば戦争犯罪人)である-----には、もちろん、本質的にはなんら影響をおよぼさない。

気軽な席での発言ということで、その他の小さな瑕疵については、煩をきらって、これ以上注釈はつけない

 

■米国歴代政権による悪辣なふるまいは、ネットのウィキペディアなどで、その概要を容易に知ることができる。

たとえば、

アイゼンハワー政権下の「PBSUCCESS作戦」(ピービーサクセスさくせん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/PBSUCCESS作戦

ケネディ政権下の「マングース作戦」(または「キューバ計画」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/キューバ計画

ジョンソン政権下の「パワーパック作戦」(アメリカ軍によるドミニカ共和国占領)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ軍によるドミニカ共和国占領_(1965年-1966年)

レーガン政権下の「ニカラグア事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ニカラグア事件

 

■今回のチョムスキー氏の談話は、1990年頃のものである。なので、言及されている米国大統領は、第41代のブッシュ大統領で終わっている。
しかし、その後、任期を終了した3人の大統領-----クリントン、第43代のブッシュ、オバマ-----のそれぞれもこのチョムスキー氏の批判をまぬがれるわけではない。
クリントン大統領は1998年のイラクへの空爆スーダンへのミサイル攻撃、1999年のユーゴ空爆、第43代ブッシュ大統領アフガニスタン侵攻と、もちろん、イラク戦争オバマ大統領はパキスタンでのミサイル攻撃、リビア空爆、ドローン(無人攻撃機)を使用した大規模な暗殺作戦、等々、いずれも戦争犯罪人たる資格に欠けていない。

 

■最後の段落中の
「また、サダム・フセインの例とまったく同じように、アメリカは、彼らのおかした他の残虐きわまる行為の数々を気にとめませんでした」
について。

ここでサダム・フセインの名前が出るのは、フセインのおこなった化学兵器攻撃を念頭に置いてのことだと思われる。

サダム・フセインは、1988年にクルド人が多数を占める地域で化学兵器を使用して住民を殺害したとされる(ハラブジャ事件)。しかし、米国政府と英米大手メディアからは声高の非難の声は発せられなかった。当時の米国にとっては、イランが敵対国であり、イランと対立するイラクは強力なパートナーだった。

 

チョムスキー氏はまた、昔からさまざまなコラムやエッセイ、著書などで「アメリカは世界最大のテロ国家である」と述べてきた。
こういった見方もしくは事実は、多少もののわかった人々の間ではすでに共通認識になっていると言ってよい。

たとえば、つい先ごろ自裁した、戦後保守派の代表的論客である西部邁氏は、絶筆となった『保守の遺言』の中で、ある主張の前提的事実の確認という形で、ごくあっさりと次のように書いている。

「だがここで大問題が生じる。世界で最も侵略的な国家はどこかと問われれば、心あるものはかならずや「アメリカだ」と答えるであろう。アメリカン・ネイティヴやジャパニーズ(の一般人)にたいする大量虐殺のことまで戻らずとも、ヴェトナム戦争イラク戦争、シリア戦争、さらにはエジプト、リビアスーダン、イエーメン、ウクライナなどにおけるアメリカの関与を含めると、アメリカほど侵略的な国家は世界史に類をみないと断言せざるをえないのである。」(『保守の遺言』(平凡社新書)の50ページより)

こういう認識がもし世界に広く行き渡っているとしたら、その功績の少なくとも一部は、チョムスキー氏の言論活動に帰することができるであろう。

 

チョムスキー氏は、米国政府のもっとも苛烈な批判者であると言える。そのためか、一部のアメリカ人からひどくきらわれている様子である。しばしば「反米」だとか「売国奴」などと非難される。

そういう声に対しては、チョムスキー氏自身の以下のような言葉が反駁の一つになるであろう。

「私自身の関心は主に自国政府によるテロ行為と暴力に向けられています。それは2つの理由によります。一つには、アメリカが世界の暴力の中でより大きな割合を占めているからです。しかし、これよりもはるかに重要なわけがあります。すなわち、母国に関しては、自分がなにがしかのことができるということです。ですから、たとえアメリカが世界の暴力のうちの大部分ではなく、ほんの2パーセントしか責めを負うべきでないとしても、その2パーセントに私はまずもって責任を負うべきでしょう。これは単純な倫理的判断です。つまり、おのれの行動の倫理的価値は、その行動から予想される影響や結果にかかっています。他国の非道なふるまいを非難することはきわめて容易です。しかし、その倫理的価値は、18世紀に起こった残虐行為を非難するのと同じようなものでしかありません。」
(『On Power and Ideology』より)

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

chomsky.info

 

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。

本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト

https://chomsky.info/
から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

 

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チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

 

原文サイトは
https://chomsky.info/198912__/

初出は1989年。

原題は

Invasion Newspeak: U.S. & USSR

この Newspeak(「新語法」または「ニュースピーク」)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する人工言語
「その目的は、国民の語彙や思考を制限し、党のイデオロギーに反する思想を考えられないようにして、支配を盤石なものにすることである」(ウィキペディア)。

(なお、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

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侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

ノーム・チョムスキー

初出: 『FAIR』(訳注1) 1989年12月

 

1983年の5月、驚くべき出来事がモスクワで起こった。恐れ知らずのニュースキャスター、ウラジミール・ダンチェフ氏がラジオ放送の中でソ連によるアフガニスタン侵攻を非難したのだ。その計5日にわたる5回連続の放送において、同氏はまた、アフガニスタンの反政府勢力に抵抗を呼びかけた。
欧米では、これに対して大きな称賛の声が湧き上がった。ニューヨーク・タイムズ紙(1983年8月6日付け)は次のような的確な論評を載せた。これはソビエト政府の広報路線からの離脱であり、ダンチェフ氏は「『二重思考』と『新語法』の準則に反旗をひるがえしたのだ」、と(訳注2)。
ダンチェフ氏は番組から降ろされ、精神病院に送られた。元の番組に数ヵ月後復帰した際、政府高官はこう述べたと伝えられる。「同氏は罰せられはしなかった。病人を罰することはできないからだ」。

 

ダンチェフ氏のラジオ放送に関してとりわけ驚くべきことは、たんに同氏が侵攻を非難し、抵抗を呼びかけたことにとどまらず、侵攻を「侵攻」とストレートに表現したことであった。
ソビエト政府の教義体系では、「ソビエトアフガニスタン侵攻」などという事象は存在しない。存在するのは、CIAやその他の好戦勢力に後押しされ、隣国パキスタンの安全地帯から軍事活動を展開しているならず者たちが相手の、「ソビエトによるアフガニスタンの防衛」である。われわれは協力を請われたのだ、とソビエト政府は言う。そして、厳密には、ある意味でこの言い分は正しい。
しかし、英エコノミスト紙はおごそかにこう宣する(1980年10月25日付け)。
「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、協力を請うた政府がソビエト自身の据えたものであってみれば、その政府が正当性を有すると主張するのはどうしても無理があろう。それができるとすれば、オーウェルの「新語法」の世界においてのみである。

 

ダンチェフ氏をめぐる事件については、欧米の報道に自己満悦の気味をうかがうことができる。欧米ではこんなことは起こりようがないのだ、というわけである。米国の侵攻をそのまま「侵攻」と表現した、あるいは、犠牲者の側に抵抗をうながした、等々の理由で米国のニュースキャスターが精神病院に送られたことなど、いまだかつてなかった。
とは言うものの、なぜそれが起きなかったかは、もう少し深く探求してみてもよいだろう。
一つの可能性として考えられるのは、ダンチェフ氏の勇気にならうジャーナリストは、米国の主流メディアには一人もいなかったということである。あるいは、彼らは、米国によるアフガニスタン等への侵攻を事実そのままに「侵攻」であると認識してさえいなかった、ということである。

 

次のような事実を考えてみてもらいたい。
1962年に米国は南ベトナムを攻撃した。その年、ケネディ大統領は米国空軍を派遣し、南ベトナムの農村部を爆撃したのである。その農村部には、同国の人口のおよそ80パーセント強が暮らしていた。この攻撃は、数百万の人々を強制収容所-----「戦略村」と呼ばれた-----に囲い込むことを企図した戦略の一環であった。これらの人々は有刺鉄線と武装衛兵に囲まれることになっていた。そのおかげで、ゲリラから身を「守る」ことができるというわけなのだ。もっとも、当の人々の大半はゲリラを支持していたのだが。

 

南ベトナムに対する米国のこの直接的攻撃は、以前の植民地の再支配をもくろむフランスへの支援、1954年の「和平プロセス」の中断、南ベトナム市民に対するテロ攻撃などの後を受けておこなわれたものである。すでにテロ攻撃によって約7万5000人が死亡しており、ベトナム国内には抵抗の気運が醸成されていた。それは、1959年以降、北ベトナムの後押しを受け、米国が成立させた南ベトナム政府の崩壊をもたらす恐れを招来した。
直接的軍事介入を開始して以来、米国は平和的解決のためのあらゆる方途にあらがい続け、1964年には、南ベトナムへの地上軍の投入を検討し始めた。実際の地上侵攻は1965年の2月に始まった。あわせて北ベトナムへの爆撃(訳注:いわゆる「北爆」)も開始し、南ベトナムにおける爆撃の規模も拡大した。それは、より有名な「北爆」のそれの3倍に相当する。米国はさらにラオスカンボジアにも戦線を広げた。

 

われわれは協力を要請されたのだ、と米国政府は抗弁した。だが、エコノミスト紙がアフガニスタン侵攻の際に洞察したように(ベトナム侵攻の場合は不問に付したが)、「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、オーウェルの「新語法」の世界でないならば、米国が成立させた傀儡国家が正当性を持たないことは、ソ連が擁立したアフガニスタン政権に正当性がないのと同様である。
米国政府自身でさえ、ゴ・ディン・ジエム政権に正当性がないことを認識していた。それどころか、これ以降も、政権指導者がテロ作戦拡大という米国の意向に進んで沿わない風であれば、失脚させられる-----首をすげ替えられる-----のが一般であった。
政治的解決はあり得ないことは、戦争の始めから終わりまでずっと、米国政府の公然たる認識であった。それはごく単純な理由によっていた。選挙をおこなえば「敵側」があっさりと勝利するだろうからである。したがって、米国はそんなことを許すわけにはいかなかった。

 

過去半世紀の間、私は主流メディアや主要学術文献を渉猟して、米国による南ベトナム侵攻(あるいはインドシナ半島における武力攻撃)について多少でも言及したものを見つけ出そうと努めてきた。だが、無駄であった。私が見出したものと言えば、外部勢力(同じベトナムなのであるが)から支援を受けたテロリストたちに抗しての、米国の「南ベトナムの防衛」であった。ハト派の主張によれば「賢明ではない」防衛の努力であった。

 

要するに、米国にはダンチェフ氏のような人物は存在しない。主流派のジャーナリストや学者の中には、侵攻を文字通り「侵攻」と呼ぶことのできる人間は存在しない。侵攻という事実を認識している人間さえいないありさまである。米国のジャーナリストが南ベトナムの人々に対して米国の侵攻にあらがうようおおっぴらに呼びかける、などという図は想像もつかない。たとえそういう人間が現れたにしても、彼が精神病院に送られるという事態は起こらなかったろう。とは言え、職業上の地位や名声を彼が保てたかどうかは疑わしい。

 

ここで一言しておきたいのは、米国では真実を語るのに勇気はいらない、たんに正直であればよい、ということである。米国市民は、国家暴力に対する恐れを釈明の言葉にすることはできない-----全体主義国家の下で党の方針にしたがわなければならない人間ならば、それを理由にできるであろうが。


CHOMSKY.INFO

 

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[その他の訳注・補足など]

■その他の訳注
訳注1.
初出の掲載元の『FAIR』は米国のメディア監視団体。

訳注2.
ここの「二重思考(またはダブルシンク)」は、タイトルにも使われた「新語法」と同じく、オーウェルの『1984年』に登場する言葉。

ジョージ・オーウェルの造語で、小説"1984"の仮想言語 Newspeak の中心的な概念。全体主義国家で民主主義は不可能であることと、国家が民主主義の擁護者であることの二つを同時に信じることなど、国家を維持するために必要な思考方法とされる」(英辞郎)。

 

■補足・1
本文章の内容は「米国政府・大手メディア・知識人に対する批判」といったところ。
取り上げられている題材は、政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳、等。

この「政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳」等は、チョムスキー氏の生涯をつらぬく大きなテーマの一つであると言ってよい。

それは、氏のこの方面の代表作たる
『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』エドワード・ハーマン氏との共著)
に結実している。

(邦訳は、
『マニュファクチャリング・コンセント-----マスメディアの政治経済学 1』
『〃 2』
トランスビュー社、中野真紀子訳)
の2巻本で出ている)

 

■補足・2
自国政府やメディアによるプロパガンダ、印象操作、洗脳などにチョムスキー氏は若い頃から敏感であった。

来日時のインタビューの一節にもそれはうかがえる。一部を以下に引用しておきます。

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インタビュアー: 日本とのかかわりについてうかがいたいのですが。

チョムスキー: 日本については1930年代からずっと興味を持っていました。満州や中国における非道な犯罪行為について聞き知ったからです。1940年代前半には、私は10代の若者でしたが、米国の人種差別的で国粋主義的な反日プロパガンダの熱狂にまったく呆然としました。ドイツ人は悪者とされましたが、それでもいくらかの敬意を持ってあつかわれました。結局のところ、彼らは色白のアーリア人に属しています-----米国人の抱く自身のイメージとちょうど重なるような。一方、日本人は虫けらにすぎず、アリのように踏みつぶされる存在として受け取られていました。日本の各都市に対する爆撃は十二分に報じられていました。それを読めば、重大な戦争犯罪が進行中であることは明らかでした。多くの点で原爆よりも深刻なものです。

インタビュアー: こういう話をお聞きしました。あなたが広島への原爆投下、そしてそれをめぐる米国市民の反応に非常なショックを受け、まわりの人々から離れて、一人になって悲嘆にくれた、と。

チョムスキー: そうです。1945年8月6日のことです。私は子供を対象とするサマー・キャンプに参加していました。拡声器を通じてヒロシマに原爆が落とされたことが伝えられました。全員が耳を澄ませて聞いていました。が、すぐに自分たちの次の活動に取り組み始めました。野球やら水泳やらです。誰も何も言いませんでした。私はショックでほとんど口がきけない状態でした-----原爆投下という恐ろしい出来事とこれに対する無反応の両方のおかげで。『だからどうしたっていうの? またジャップがおおぜい焼け死んだっていうだけ。それにアメリカは原爆を持ち、よその国は持たない、すばらしいじゃないか。僕たちは世界を支配することができる。それでみんなハッピーさ』。こんな調子です。
その後の戦後処理についても、私は同様にかなりの嫌悪感を持ちながら注意を払ってきました。もちろん、当時は、今自分がしていることを予想してはいませんでした。けれども、十分に情報は得られたのです。「愛国的なおとぎ話」を割引して聞ける程度の情報は。

 

(出典: http://zcomm.org/znetarticle/truth-to-power/

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