チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

chomsky.info

 

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。

本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト

https://chomsky.info/
から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

 

 ----------------------------------------------------------------------

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

 

原文サイトは
https://chomsky.info/198912__/

初出は1989年。

原題は

Invasion Newspeak: U.S. & USSR

この Newspeak(「新語法」または「ニュースピーク」)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する人工言語
「その目的は、国民の語彙や思考を制限し、党のイデオロギーに反する思想を考えられないようにして、支配を盤石なものにすることである」(ウィキペディア)。

(なお、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

 ----------------------------------------------------------------------

 

侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

ノーム・チョムスキー

初出: 『FAIR』(訳注1) 1989年12月

 

1983年の5月、驚くべき出来事がモスクワで起こった。恐れ知らずのニュースキャスター、ウラジミール・ダンチェフ氏がラジオ放送の中でソ連によるアフガニスタン侵攻を非難したのだ。その計5日にわたる5回連続の放送において、同氏はまた、アフガニスタンの反政府勢力に抵抗を呼びかけた。
欧米では、これに対して大きな称賛の声が湧き上がった。ニューヨーク・タイムズ紙(1983年8月6日付け)は次のような的確な論評を載せた。これはソビエト政府の広報路線からの離脱であり、ダンチェフ氏は「『二重思考』と『新語法』の準則に反旗をひるがえしたのだ」、と(訳注2)。
ダンチェフ氏は番組から降ろされ、精神病院に送られた。元の番組に数ヵ月後復帰した際、政府高官はこう述べたと伝えられる。「同氏は罰せられはしなかった。病人を罰することはできないからだ」。

 

ダンチェフ氏のラジオ放送に関してとりわけ驚くべきことは、たんに同氏が侵攻を非難し、抵抗を呼びかけたことにとどまらず、侵攻を「侵攻」とストレートに表現したことであった。
ソビエト政府の教義体系では、「ソビエトアフガニスタン侵攻」などという事象は存在しない。存在するのは、CIAやその他の好戦勢力に後押しされ、隣国パキスタンの安全地帯から軍事活動を展開しているならず者たちが相手の、「ソビエトによるアフガニスタンの防衛」である。われわれは協力を請われたのだ、とソビエト政府は言う。そして、厳密には、ある意味でこの言い分は正しい。
しかし、英エコノミスト紙はおごそかにこう宣する(1980年10月25日付け)。
「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、協力を請うた政府がソビエト自身の据えたものであってみれば、その政府が正当性を有すると主張するのはどうしても無理があろう。それができるとすれば、オーウェルの「新語法」の世界においてのみである。

 

ダンチェフ氏をめぐる事件については、欧米の報道に自己満悦の気味をうかがうことができる。欧米ではこんなことは起こりようがないのだ、というわけである。米国の侵攻をそのまま「侵攻」と表現した、あるいは、犠牲者の側に抵抗をうながした、等々の理由で米国のニュースキャスターが精神病院に送られたことなど、いまだかつてなかった。
とは言うものの、なぜそれが起きなかったかは、もう少し深く探求してみてもよいだろう。
一つの可能性として考えられるのは、ダンチェフ氏の勇気にならうジャーナリストは、米国の主流メディアには一人もいなかったということである。あるいは、彼らは、米国によるアフガニスタン等への侵攻を事実そのままに「侵攻」であると認識してさえいなかった、ということである。

 

次のような事実を考えてみてもらいたい。
1962年に米国は南ベトナムを攻撃した。その年、ケネディ大統領は米国空軍を派遣し、南ベトナムの農村部を爆撃したのである。その農村部には、同国の人口のおよそ80パーセント強が暮らしていた。この攻撃は、数百万の人々を強制収容所-----「戦略村」と呼ばれた-----に囲い込むことを企図した戦略の一環であった。これらの人々は有刺鉄線と武装衛兵に囲まれることになっていた。そのおかげで、ゲリラから身を「守る」ことができるというわけなのだ。もっとも、当の人々の大半はゲリラを支持していたのだが。

 

南ベトナムに対する米国のこの直接的攻撃は、以前の植民地の再支配をもくろむフランスへの支援、1954年の「和平プロセス」の中断、南ベトナム市民に対するテロ攻撃などの後を受けておこなわれたものである。すでにテロ攻撃によって約7万5000人が死亡しており、ベトナム国内には抵抗の気運が醸成されていた。それは、1959年以降、北ベトナムの後押しを受け、米国が成立させた南ベトナム政府の崩壊をもたらす恐れを招来した。
直接的軍事介入を開始して以来、米国は平和的解決のためのあらゆる方途にあらがい続け、1964年には、南ベトナムへの地上軍の投入を検討し始めた。実際の地上侵攻は1965年の2月に始まった。あわせて北ベトナムへの爆撃(訳注:いわゆる「北爆」)も開始し、南ベトナムにおける爆撃の規模も拡大した。それは、より有名な「北爆」のそれの3倍に相当する。米国はさらにラオスカンボジアにも戦線を広げた。

 

われわれは協力を要請されたのだ、と米国政府は抗弁した。だが、エコノミスト紙がアフガニスタン侵攻の際に洞察したように(ベトナム侵攻の場合は不問に付したが)、「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、オーウェルの「新語法」の世界でないならば、米国が成立させた傀儡国家が正当性を持たないことは、ソ連が擁立したアフガニスタン政権に正当性がないのと同様である。
米国政府自身でさえ、ゴ・ディン・ジエム政権に正当性がないことを認識していた。それどころか、これ以降も、政権指導者がテロ作戦拡大という米国の意向に進んで沿わない風であれば、失脚させられる-----首をすげ替えられる-----のが一般であった。
政治的解決はあり得ないことは、戦争の始めから終わりまでずっと、米国政府の公然たる認識であった。それはごく単純な理由によっていた。選挙をおこなえば「敵側」があっさりと勝利するだろうからである。したがって、米国はそんなことを許すわけにはいかなかった。

 

過去半世紀の間、私は主流メディアや主要学術文献を渉猟して、米国による南ベトナム侵攻(あるいはインドシナ半島における武力攻撃)について多少でも言及したものを見つけ出そうと努めてきた。だが、無駄であった。私が見出したものと言えば、外部勢力(同じベトナムなのであるが)から支援を受けたテロリストたちに抗しての、米国の「南ベトナムの防衛」であった。ハト派の主張によれば「賢明ではない」防衛の努力であった。

 

要するに、米国にはダンチェフ氏のような人物は存在しない。主流派のジャーナリストや学者の中には、侵攻を文字通り「侵攻」と呼ぶことのできる人間は存在しない。侵攻という事実を認識している人間さえいないありさまである。米国のジャーナリストが南ベトナムの人々に対して米国の侵攻にあらがうようおおっぴらに呼びかける、などという図は想像もつかない。たとえそういう人間が現れたにしても、彼が精神病院に送られるという事態は起こらなかったろう。とは言え、職業上の地位や名声を彼が保てたかどうかは疑わしい。

 

ここで一言しておきたいのは、米国では真実を語るのに勇気はいらない、たんに正直であればよい、ということである。米国市民は、国家暴力に対する恐れを釈明の言葉にすることはできない-----全体主義国家の下で党の方針にしたがわなければならない人間ならば、それを理由にできるであろうが。


CHOMSKY.INFO

 

----------------------------------------------------------------------

[その他の訳注・補足など]

■その他の訳注
訳注1.
初出の掲載元の『FAIR』は米国のメディア監視団体。

訳注2.
ここの「二重思考(またはダブルシンク)」は、タイトルにも使われた「新語法」と同じく、オーウェルの『1984年』に登場する言葉。

ジョージ・オーウェルの造語で、小説"1984"の仮想言語 Newspeak の中心的な概念。全体主義国家で民主主義は不可能であることと、国家が民主主義の擁護者であることの二つを同時に信じることなど、国家を維持するために必要な思考方法とされる」(英辞郎)。

 

■補足・1
本文章の内容は「米国政府・大手メディア・知識人に対する批判」といったところ。
取り上げられている題材は、政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳、等。

この「政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳」等は、チョムスキー氏の生涯をつらぬく大きなテーマの一つであると言ってよい。

それは、氏のこの方面の代表作たる
『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』エドワード・ハーマン氏との共著)
に結実している。

(邦訳は、
『マニュファクチャリング・コンセント-----マスメディアの政治経済学 1』
『〃 2』
トランスビュー社、中野真紀子訳)
の2巻本で出ている)

 

■補足・2
自国政府やメディアによるプロパガンダ、印象操作、洗脳などにチョムスキー氏は若い頃から敏感であった。

来日時のインタビューの一節にもそれはうかがえる。一部を以下に引用しておきます。

----------------------------------------------------------------------

インタビュアー: 日本とのかかわりについてうかがいたいのですが。

チョムスキー: 日本については1930年代からずっと興味を持っていました。満州や中国における非道な犯罪行為について聞き知ったからです。1940年代前半には、私は10代の若者でしたが、米国の人種差別的で国粋主義的な反日プロパガンダの熱狂にまったく呆然としました。ドイツ人は悪者とされましたが、それでもいくらかの敬意を持ってあつかわれました。結局のところ、彼らは色白のアーリア人に属しています-----米国人の抱く自身のイメージとちょうど重なるような。一方、日本人は虫けらにすぎず、アリのように踏みつぶされる存在として受け取られていました。日本の各都市に対する爆撃は十二分に報じられていました。それを読めば、重大な戦争犯罪が進行中であることは明らかでした。多くの点で原爆よりも深刻なものです。

インタビュアー: こういう話をお聞きしました。あなたが広島への原爆投下、そしてそれをめぐる米国市民の反応に非常なショックを受け、まわりの人々から離れて、一人になって悲嘆にくれた、と。

チョムスキー: そうです。1945年8月6日のことです。私は子供を対象とするサマー・キャンプに参加していました。拡声器を通じてヒロシマに原爆が落とされたことが伝えられました。全員が耳を澄ませて聞いていました。が、すぐに自分たちの次の活動に取り組み始めました。野球やら水泳やらです。誰も何も言いませんでした。私はショックでほとんど口がきけない状態でした-----原爆投下という恐ろしい出来事とこれに対する無反応の両方のおかげで。『だからどうしたっていうの? またジャップがおおぜい焼け死んだっていうだけ。それにアメリカは原爆を持ち、よその国は持たない、すばらしいじゃないか。僕たちは世界を支配することができる。それでみんなハッピーさ』。こんな調子です。
その後の戦後処理についても、私は同様にかなりの嫌悪感を持ちながら注意を払ってきました。もちろん、当時は、今自分がしていることを予想してはいませんでした。けれども、十分に情報は得られたのです。「愛国的なおとぎ話」を割引して聞ける程度の情報は。

 

(出典: http://zcomm.org/znetarticle/truth-to-power/

----------------------------------------------------------------------