チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・3

[ソビエト連邦社会主義]

 

原題は
The Soviet Union Versus Socialism


内容は、レーニントロツキースターリンを賛美するソビエト連邦その他と、アメリカを中心とする資本主義国の支配階層がともに「社会主義」という言葉を自分たちに都合のいいように利用した点を衝いたもの。
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である。

 

原文サイトは
https://chomsky.info/1986____/

 
初出は 『Our Generation』(我らの世代)というジャーナルの1986年春・夏号。
この『Our Generation』誌はアナキズムや libertarian socialism(自由主義社会主義)をテーマとする専門誌であるらしい。


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

 


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ソビエト連邦社会主義


ノーム・チョムスキー

初出: 『我らの世代』1986年 春・夏号


世界の2大プロパガンダ体制がある教義について合意した場合、その教義の縛りから脱するには、一方ならぬ知的努力が要求される。
ある教義とは、たとえば、次のようなものだ。
レーニントロツキーが創始し、スターリンとその後継者たちが整備した社会は、実質的な意味もしくは歴史的に正当な意味において、社会主義と関係がある」、と。
ところが、実際は、たとえ関係があるにしても、それは背反関係なのである。

 

上記の虚妄をこの2大プロパガンダ体制が説いて倦まないのはなぜか、それは苦もなく説明がつく。
ソビエト連邦は、その成立の時点からずっと、自国民および他の地域の虐げられた人々の活力を利用しようと努めてきた。それは、1917年のロシアの騒乱をテコにして国家権力を掌握した人間たちにとって、都合がよかった。
そのために用いられる観念上もっとも大きな武器は、次のように主張することであった。
ソビエトの指導者たちは、社会主義の理想に向けて、自国社会と世界を導いている」、と。
これはあり得ない話であり、いかなる社会主義者も-----まともなマルクス主義者ならばまちがいなく-----即座にあり得ないと考えるはずのことであった(実際に多くの社会主義者がそう考えた)。そしてまた、これはケタ外れの欺瞞であった。そのことは、ボルシェビキ体制のごく早い時期からすでに歴史が明らかにしている。
国家運営のボスたちは、社会主義の理想のオーラ、社会主義の理想にしかるべくともなう畏敬の念を利用することで正当性と支持を獲得しようと図った。こうして、社会主義のあらゆる側面を打ちこぼしながら、自分たちの常習的な現実のふるまいを隠蔽したのである。

 

一方、世界で2番目に大きなプロパガンダ体制にとっては、社会主義ソビエト連邦とその従属国に関連づけることは、イデオロギー上の武器としてすぐれて有用であった。人々に、国家資本主義体制への同調と服従を強いることができるからである。この体制下の組織や機構の所有者、運営者に一般人が「自分の身を賃貸しする」必要性をほとんど自然の法則のごとく信じ込ませることができるからである。それが「社会主義の牢獄」に対する唯一の代替策というわけであった。

 

かくして、ソビエト連邦の指導者たちは、自分自身を社会主義者と呼称することで、こん棒をふり回す権利を確保し、欧米の資本主義擁護派は、社会主義をひきあいに出すことによって、より自由で公正な社会の実現が押しとどめられることを期待した。
社会主義に対するこの両翼からの攻撃は、現代史において、社会主義の評判をおとしめるのにまことに効果的であった。

 

ここでまた注意を喚起しておきたいのは、既存の権力と特権に仕えるために国家資本主義の唱道者たちがたくみに採用するもう一つの手管である。
いわゆる「社会主義」国家をお決まりのように非難するにあたって、歪曲がふんだんに-----また、あからさまな嘘がたびたび-----用いられる。
自国と対立する側を糾弾し、犯罪行為の責任を彼らに帰することほど易しいことはない。非難の言葉を浴びせ続ける中で、証拠や理論等の裏付けの負担は、いっさい要求されないのである。

 

一方、欧米の暴力や残虐行為を批判する者は、大抵の場合、事実関係を明らかにしようと奮闘する。現実に起きた無残な犯罪行為や弾圧行為の事実を認めるとともに、欧米の暴力を手助けするために持ち出される言説の嘘を白日の下にさらす。ところが、予想されることではあるが、そういう場合、きまってこれらの対応は即座に「悪の帝国」とその子分たちを擁護するふるまいと見なされる。

かくして、大切な「お国のために嘘をつく権利」は生き長らえ、国家の暴力や残虐行為に対する批判は、矛先をにぶらされる。

 

また、もう一つ指摘しておいていいことは、紛争や混乱の時代において、レーニン主義の教義が近代の知識人にとって大きな魅力と映じる点である。
この教義は、「急進的知識人」に国家権力をにぎる権利、人々に対して「赤い官僚」、「新しい階級」の峻厳なルールを強いる権利、を付与する(これらの表現は、一世紀ほど前、バクーニンが先見的な考察をおこなった中で用いたものである)。
マルクスが批判した「ボナパルト国家」におけるのと同様に、彼らは「国家司祭」となる。鉄の手で統治する「市民社会の寄生的突起物」となる。

 

国家資本主義体制をおびやかす別の勢力がほとんど存在しない時代にあって、このレーニン主義体制への同じような本源的な取り組みは、「新しい階級」をして、国家の運営者の役割、この体制の唱道者の役割をはたすように導く。バクーニンの言葉を借りると、「人民を、『人民の棒』でなぐる」のである。
このような次第であるから、知識人にとって、「革命的マルクス主義」から「欧米賛美」へと転換するのが容易であるのは取り立てて不思議ではない。過去半世紀の間に悲劇から笑劇へと変じたシナリオを再演しただけの話である。結局のところ、変わったのは、権力の所在についての見きわめであるにすぎない。
レーニンは、「社会主義とは、全人民の利益に資することを企図した国家独占資本主義にほかならない」と述べた。その全人民は、もちろん、自分たちの指導者の慈悲深さを疑ってはならない。このレーニンの言葉は、「社会主義」が「『国家司祭』の要求するもの」へと変性したことを表している。そしてまた、これによって、彼らの姿勢の急激な転換を理解する手がかりが得られる。一見、まったく正反対に思えるが、実際はごく似かよったものだったのだ。

 

政治や社会をめぐる会話で使用される術語は、あいまいで不正確であり、あれこれの理念の唱道者の口出しによって絶えずその価値を減耗させられる。とは言え、それらの術語の本来の意味がまったく消え失せるわけではない。
社会主義という言葉は、その誕生の時以来ずっと、「働く人々の搾取からの解放」を意味していた。
マルクス主義の理論家、アントン・パネクーク氏はこう述べている。
社会主義の理想はブルジョワジーに取って代わったあらたな指導・統治階級によって達成されてはいないし、また、達成することもできない」。それができるのは「労働者自身が生産に関する主人となることによって」のみである、と。
生産者が生産を管理・掌握することこそが社会主義の要諦である。そして、これを達成する手段は、革命をめざす闘争のさなかにも、たゆまず工夫を試みられてきた。それは、従来の支配階層や「革新的知識人」から猛烈な反対を受けた。彼らは、変化する状況に応じながらも、レーニン主義や欧米の管理統制主義の一般的原則にしたがっていた。しかし、社会主義的理想の本質的な要素はゆるがない。すなわち、生産の手段を、自発的な意思で結びついた生産者の所有物とし、また、このようにして人々の社会的財産とすることである。人々は自分の主人による搾取から自身を解放する-----人間の自由のより広大な領域に向かう重要な一歩として。

 

レーニン主義の知識人たちは、これとは別の思わくを有していた。彼らは、「進行中の革命過程を先取りする『陰謀家』」というマルクスの言葉の通り、革命過程をおのれの覇権のためにゆがめたのである。「かくして、階級的利益に関して理論面で労働者をより啓発することに対する、彼らのきわめて侮蔑的な態度」が生じた。その「階級的な利益」には、「赤い官僚」の打倒、生産や社会生活に関する民主的な管理・掌握の仕組みの創造、等々が含まれているのであるが。レーニン主義者にとっては、一般大衆はきびしく律せられていなければならなかったのである。

一方、社会主義者は、規律が「余計なものとなる」社会秩序を創出することに力をそそぐであろう。規律が「余計なものとなる」のは、自発的な意思で結びついた生産者が「自主的に働く」(マルクス)からである。
自由主義社会主義」(訳注: 原語は libertarian socialism)においては、さらに進んで、その目標を、生産者による生産の民主的管理・掌握のみにとどめず、社会生活と個人生活の全局面における支配や序列の態様いっさいを駆逐しようとする。これは終わりのない闘争である。なぜなら、より公正な社会を実現しようと前進する中で、旧来の慣習や意識に潜んでいたかもしれないさまざまな抑圧形態があらたに看取、認識されるであろうから。

 

社会主義のもっとも中核的な特徴に対するレーニン主義者の敵意は、そもそもの出発点から明白であった。
革命期のロシアでは、ソビエト評議会や工場委員会が闘争と解放の手段として陸続と設立された。数多くの欠陥をかかえていたが、豊かな可能性も秘めていた。
レーニントロツキーは、しかし、権力をにぎるやいなや、ただちに解放の手段としてのこれらの可能性をつぶしにかかった。そして、党の-----実質上、その中央委員会と最高指導者の-----支配をゆるぎないものとしたのである。それはまさしくトロツキーが何年も前に思い描いていたことであった。それはまた、ローザ・ルクセンブルクその他のマルクス主義者が当初、警告したことであり、アナキストにとっては、つねに当然のなりゆきであった。
一般人民のみならず、党自身でさえも「上からの厳重な監督」にしたがわなければならない-----と、トロツキーは述べた。こうして彼は「革新的知識人」から「国家司祭」に変貌したのである。
国家権力を手中にする前は、ボルシェビキの指導者層は、下からの革命の闘争に従事する人々の使うレトリックの数々を拝借していた。が、彼らの真の眼目はまるっきり別のものであった。
このことは、1917年の10月に彼らが国家権力を掌握する前から明らかであったし、それ以後は、どうながめても紛れようがなかった。

 

ボルシェビキに好意的な歴史家のE・H・カー氏は次のように述べている。
「工場委員会を組織したり、工場の運営に口出ししたり、といった労働者の自発的性向は、当然のことながら革命によって助長された。国家の生産設備は自分自身の所有物であり、自分自身の裁量により、また、自分自身の利益になるように使用できる-----"革命のおかけで、彼らはこう信じるに至った"」。
("~"は私による強調)
また、あるアナキストの代表はこう発言している。
労働者にとって、「工場委員会は未来のための種子であった…… 今や、国家ではなく、工場委員会が采配をふるべきなのだ」。

 

しかし、「国家司祭」たちはいささか頭が切れた。ただちに工場委員会を殲滅し、ソビエト評議会を自分たちの支配のための道具と化さしめたのである。
11月3日に、レーニンは「労働者による管理運営に関する布告草案」の中で次のように書いている。
かかる管理運営をおこなうべく選出された者は、「厳格な秩序と規律の維持および資産の保護に関し、国に対して責任を負う」ものとする、と。
年の終わりには、レーニンは以下のように書きつけた。
「われわれは、『労働者による管理運営』から『最高国民経済会議』の創設へと移行した」。
この「最高国民経済会議」は「『労働者による管理運営』という仕組みを代替・吸収・上書きする」(E・H・カー)ことになる。
社会主義という概念は『労働者による管理運営』という考え方に結晶しているのに」と、メンシェビキの労働組合支持者の一人は嘆いた。
ボルシェビキの指導者らは、この嘆きを行動によって表現したのである-----社会主義の概念の核たる「労働者による管理運営」を破棄することによって。

 

ほどなくレーニンはこう宣言する。
指導者は、労働者に対して「独裁的な権力」を保持しなければならぬ。労働者は「単一の意思への絶対的服従」をうべなわなければならない。そして、「社会主義大義のために」、「労働過程における指導者たちの単一の意思に、いっさい疑問を差し挟まずしたがわなければならない」。

 

レーニントロツキーは労働の軍事化を進めた。社会を、自分らの単一の意思に服する労働部隊へと変容せしめたのである。
その過程で、レーニンは次のように述べている。
「権威を有する個人」への労働者の服従こそは、「ほかの何にもまして人的資源の最大活用を確実ならしめる仕組み」である、と。
これは、ロバート・マクナマラ氏の表明した考え方と同じである。(末尾の訳注1を参照)。すなわち、「重要な意思決定は……トップにまかせなければならない。……民主主義への真の脅威は過剰管理ではなく過小管理から生じる」。「人間を支配するのがもし理性でないとしたら、人間はその可能性をあまさず開花させることができない」。そして、経営とは、理性による支配にほかならない。理性による支配こそがわれわれに自由を保障するのだ、うんぬん。

 

そして、同時にまた、「派閥」-----すなわち、表現や集団の自由のささやかな表徴-----までもが「社会主義大義のために」放逐された。「社会主義」なる言葉は、レーニントロツキーの思わくによって定義を変えられたのである。この2人はファシスト体制の原型を創り上げた。そして、それは、スターリンによって、近代の数々の惨劇のうちの一つに成りおおせた(原注1)。

 

レーニン主義の知識人たちがかかえる社会主義への激しい敵意を理解できなかったこと(その根は明らかにマルクスにあるが)、そしてまた、レーニン主義体制を誤解したこと-----この2つは、より公正な社会と存続可能な世界を求める欧米の取り組みに対して、壊滅的な影響をもたらした。いや、それは、欧米にかぎられた話ではなかった。

社会主義の理想を救出する道を見出さなければならない。世界に大きな影響力をふるう2大勢力の中の敵手から救出する道、たえず「国家司祭」や社会の運営者になろうとし、解放という名目で自由を圧殺しようとする人々から救出する道を。

 
原注1: 社会主義に対する早い時期のレーニントロツキーによる破壊行為については、多くの論述がある中で、とりわけ、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)(末尾の訳注2を参照)、および、ピーター・ラクレフ氏の『ラディカル・アメリカ』誌への寄稿(1974年11月号)を参照。

 

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[その他の訳注・補足など]

■訳注1

 ロバート・マクナマラは米国の実業家、政治家。フォード社の社長を務めた後、ケネディ、ジョンソン政権下で国防長官、その後は世界銀行総裁。
ハーバード・ビジネス・レビュー誌の特集では、「ベトナム戦争を泥沼化させた張本人としてアメリカ人の記憶に残っている」が、国防長官就任以前はフォード社の経営などに携わり、科学的経営をおこなった「近代経営の体現者」と評されている。
いわば、資本主義体制を代表する人物である。

 

■訳注2

原注1で言及されている、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)は、以下の名前で邦訳が出ているもよう。

ロシア革命の幻想』(三一新書、尾関弘訳、1972年刊)

(原題の訳の「ボルシェビキと労働者管理」は、この邦訳では、小さく副題として表示されている)

 

■補足・1
前書きで、
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である」
と書いた。
チョムスキー氏が若い頃からこの種のプロパガンダに敏感であったことは、本ブログ1回目の「その他の訳注・補足など」の「補足・2」でふれた。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1
侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連
https://kimahon.hatenablog.com/entry/2018/04/14/164648

 

■補足・2
チョムスキー氏は現行の資本主義を「国家資本主義」と形容する。。
「市場原理に立脚した資本主義」というのは見せかけ、政府やメディアによるプロパガンダであって、実際は国家のはたす役割が大きいから「国家資本主義」という呼称が似つかわしいということであるらしい。
現在の資本主義体制においては、国家の役割が大きいというのは、チョムスキー氏の主要な主張の一つである。

この点について、本ブログが依拠するチョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ の中にもし適当なコラムがあれば、いずれ紹介するつもりである。