チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・4

 

[ある島国が血を流したまま横たわる]

 

原題は
An Island Lies Bleeding


今回のコラムは、チョムスキー氏が東ティモールの問題にふれた文章のうちで、もっとも早いもの(1994年7月)。

 

インドネシアによる東ティモール侵攻を、米国を初めとする各国が資源掌握、兵器売却益、その他の思わくから支援した点を浮き彫りにしたものである。そして、大手メディアは、同盟国インドネシア不法行為、米国その他がそれを支援しているという事実、その真の思わく、等々を正面切って大々的に取り上げようとはしなかった。

 

今回の文章は、事実や情報の多くを著名なドキュメンタリー映画監督であるジョン・ピルジャー氏の著作に負っているが、東ティモール問題の実相が世人に認識される上で、チョムスキー氏がこれ以降執筆した数々の文章がはたした貢献は、無視することができない。


原文サイトは
https://chomsky.info/19940705/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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An Island Lies Bleeding
ある島国が血を流したまま横たわる


ノーム・チョムスキー

『ガーディアン』紙 1994年7月5日

 

この悲惨な20世紀に起こった犯罪のうちで、インドネシア政府による東ティモール侵攻は特筆すべきものである。
規模の点からだけではない(人口比で言えば、おそらくホロコースト以来、最多の犠牲者数を計上しているが)。その犯罪行為を抑止すること、望めばいつでもそれを止めることが容易であった点において際立っている。
ジャカルタ空爆するという脅し、いや、制裁措置を課するという脅しさえ、必要ない。大国がこのインドネシア政府による犯罪に積極的に関与することをつつしむだけで十分であったろう。すなわち、殺人と拷問の実行者に武器を手渡すことをやめる、そして、ティモール・ギャップの海底油田の分捕り合戦に参加するのをやめることである。

 

これらの事情については、「知らなかった」では済まされない。今年、ジョン・ピルジャー氏の著作『ディスタント・ボイス』が再刊された。この中で、東ティモールに関する力のこもった、啓発的な叙述が展開されている。

 

2年ほど前、インドネシア外務大臣アリー・アラタス氏は述べた。インドネシア政府は東ティモールに関して重大な選択をせまられている。東ティモールは「靴の中の、角立った小石のような」存在と化した、と。
インドネシアに関する著名な専門家であるベネディクト・アンダーソン氏は、この言を、方針見直しの数ある兆候のうちの一つと捉えた。「この重大な選択の具体的中身についてアラタス氏は語らなかったが、その示唆するところは、『靴をぬいで小石を取り除いた方がいい』ということです」。こう、同氏は評する。

 

「角立った小石」と化したのは、欧米列強の反対があったからではない。とんでもない。西側諸国および日本は、このポルトガルの旧植民地にインドネシアが侵攻し、それを自国領土に組み入れることに進んで協力したのである。
ピルジャー氏の著作は、以下の事実を伝えている。
1975年、インドネシアは、12月7日からのあからさまな侵攻に先立って、破壊工作とテロ活動を開始した。しかし、これよりずっと以前に、ジャカルタの英国大使館は次のように報告していた。
「当地の情勢を鑑みるに、インドネシア東ティモールをできるかぎり迅速かつ目立たずに併合することは、まちがいなく英国の国益に資する。かりに状況が手づまりとなり、国連で議論が紛糾した場合、われわれは面を伏せ、インドネシア政府に反対する側につかないようにするのがよかろう」。

 

オーストラリアもまた、この見方に与する。
ピルジャー氏の著作には、同様に、以下のような事実が明かされている。
1975年の8月、ジャカルタ駐在のオーストラリア大使、リチャード・ウールコット氏は、機密電信で次のように伝えていた。
近々開始される侵攻に関して、オーストラリアは「原理・原則に基づいた姿勢ではなく実利的な態度」で臨むべきだ。なぜなら、「そういうものこそが国益と外交の本義だからである」。
同氏はまた、お決まりの「オーストラリアの安全保障上の国益」に言及しつつ、こう述べる。
ティモール・ギャップをめぐる協定に関しては、ポルトガルあるいは同国から独立した東ティモールとよりも、インドネシア政府と交渉した方が、はるかに有利な取引ができるであろう」。
「ウィルソン的理想主義」よりも「キッシンジャー流現実主義」に依拠するよう同氏は勧める。もっとも、この両者のちがいは、実際のふるまいに徴した場合、高性能の顕微鏡ででもなければ見分けられないであろうが。

 

インドネシア政府の犯罪行為を後押しする理由は、原子力潜水艦の深海航行ルートを確保・支配することなどもふくめ、石油や「安全保障上の国益」以外にもさまざまである。
インドネシアは1965年にスハルトが権力を掌握した時以来ずっと「称うべき同盟国」であった。
その権力奪取は「血しぶきの舞う惨劇」によってあがなわれたが、それは「西側諸国にとって久方ぶりのアジアからの朗報」(タイム誌)であった。この「共産主義者とその支持者に対する恐るべき大量殺戮」(彼らの大半は小作農民であった)は、「アジアにおける一条の光」(ニューヨーク・タイムズ紙)を提供するものであった。メディアにおける昂揚感はかぎりがなかった。最終的に勝利した「インドネシアの穏健派」(ニューヨーク・タイムズ紙)、および、「根は温和な」(エコノミスト誌)そのリーダーに対して、称賛の言葉が書き連ねられた。

 

この「称賛」に値する殺戮は、インドネシアの一般市民に根ざした唯一の政党を扼殺しただけではない。同国の豊かな資源を欧米の搾取の手に開放した。さらには、米国のベトナム戦争の正当化のために利用されさえした。ベトナムが「インドネシアの急激な共産化に対する盾を提供する」との理由で(これは、当時のフリーダム・ハウス(訳注: 米国に本拠を置く人権擁護団体)による率直で厳粛な表現である)。
このような利点の数々がすぐに忘れ去られるはずがない。

 

上記のオーストラリア大使、ウールコット氏は、「キッシンジャー流現実主義」を如実に示す事例をいくつか明かしてくれる。
同氏は、「インドネシア政府に対して、米国は目下、多少の影響力を発揮できるかもしれない」と外交的な抑制表現を用いつつ述べ、以下の事実を伝えた。
キッシンジャー氏が、駐インドネシア大使のデヴィッド・ニューサム氏に対して、ティモール問題を回避し、大使館報告を縮約して、「事態の自然ななりゆき」にまかすよう指示した、と。
また、ニューサム氏は、もしインドネシア政府が東ティモールに侵攻するならば、「手際よく、迅速に、かつ、米国製兵器を使用することなく」そうするのが米国の望みであるとウールコット氏に打ち明けている。ちなみに、米国製兵器は、インドネシア政府の兵器調達の約90パーセントを占める。

 

このような現実主義の教えは、当時、国連大使であったダニエル・パトリック・モイニハン氏の言葉にもうかがえる。同氏は、国際法と人権を雄々しく擁護したことで著名であるが。
「米国政府は事態がこのようになることを望んだ」と、その回顧録で同氏は述べている。「そして、それが実現すべく力をそそいだ。国連が推進するいかなる施策であれ、それが不首尾に終わることを国務省は願った。その任務は私に割り当てられた。そして、私はその過程で少なからぬ成功をおさめた」。
モイニハン氏は、侵攻の最初の数ヶ月で殺害された犠牲者数は6万人との推定値を引用している。これは「比率的に言えば、第二次世界大戦ソビエト連邦がこうむった犠牲者のレベルにほぼ匹敵する」と述べる。しかし、それは、その後すぐにひき続く、はるかに大きな成功の序章にすぎない。

 

欧米の各政権は、事後の知らないふりとは裏腹に、当初からずっと事態の真のなりゆきを十分承知していた。
リークされた内部文書で明らかになったことだが、キッシンジャー氏のもっとも恐れていたのは、侵攻における自分の関与が暴露され、目下の政敵や将来の政敵によって、それが「自分に対する攻撃材料として利用される」ことであった。
また、ケーブル通信の記録からは、以下の事実が浮き彫りになった。
スハルトにゴーサインが出された」後、インドネシア大使館と米国務省がとりわけ懸念したのは、アメリカのはたした役割を「国民と議会が知った時に、われわれが直面することになるであろうさまざまな厄介ごと」であった。
これらの言い回しは、当時ジャカルタ在のCIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏がピルジャー氏のインタビューに答えた際のものである。

 

米国の提供する兵器は、自国防衛の用途にきびしく制限されていた。が、それは、「キッシンジャー流現実主義」にとってなんら障害とはならなかった。内輪の議論において、この点が持ち出された時、キッシンジャー氏は冷笑的にこう反問した。
「で、インドネシアのただ中に共産主義政府をかかえることが自己防衛の問題と解釈できないだと?」。
慣習的な物差しにおいては、自主独立的な東ティモールは「共産主義」政権ということになるのである。そういう国は米国の指図に嬉々としてしたがうとはかぎらない。つまり、米国の「国益」の妨げとなるのだ。
かくして、内乱対策用装備をふくむ、あらたな兵器類がインドネシアに送られた。つまり、「大規模な戦争をするのに必要なあらゆる兵器類が、武器をいっさい持たない人々に向けられたのです」とリチティ氏は言う。先端的な軍事装備が決定的な役割をはたしました、と同氏は付言する。この点は、他の情報源によっても裏づけられている。
万一、異議申し立てがなされたとしても、ありあまる前例が引き合いに出されたことだろう。「偉大な魂はちっぽけなモラルなどほとんど意に介さない」。こう、2世紀ほど前に、米国の別の政治家は言い放っている(訳注: 米国第3代副大統領アーロン・バーの言葉とされる)。

 

1977年になると、インドネシアは兵器不足におちいっていた。それは、すなわち、侵攻の規模の大きさを証するものだ。カーター政権は兵器輸出を促進した。残虐行為が頂点に達した1978年には、英国も兵器輸出に加わった。一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した。他の国々の政府も同様に、このティモールの人々の大量殺戮と拷問から、最大限の利得を手に入れようとした。

 

メディアもこれに手を貸した。
米国における東ティモール関連の報道は、1974年と1975年がピークだった。「ポルトガル海上帝国」の崩壊をめぐる関心がその背景であった。スハルトの権力奪取時の「血しぶきの舞う惨劇」とは別の、あらたな「血しぶきの舞う惨劇」が展開するにつれ、報道は下火になっていった。その焦点は主に米国務省インドネシア軍将校の虚言と弁明に向けられていた。1978年に虐殺はジェノサイド(特定民族殲滅)の域に達したが、報道はまったく地をはらってしまった。
米国とならぶインドネシア政府の支持国であるカナダでも、事情は同じである。

 

ティモールの問題は1990年にいくらか光を浴びた。すなわち、その年にイラククウェートに侵攻したのである。それに対する欧米の反応はかなり異なっていた。インドネシアの方は、同じように原油にめぐまれた、隣接する小国に対しての、はるかに血なまぐさい侵攻・併合であったが。
そのちがいは影響力と利益の所在とはかかわりないということを説明するのに、とびきりの創意工夫の才が発揮された。ちがいは、ある種の、より微妙な、アングロサクソン系の美徳をそなえる性質のものに帰せられた。
これと類似のゆらぎは、この10年前にも見られたものだ。カンボジアティモールにおける同時期の残虐行為に対する極端に異なった反応を正当化しようする際にも、それは起こった。もっとも、たしかに大きな相違はあった。ティモールの場合は、その残虐行為をただちに止めることができたであろうという点で。

 

事情をストレートに語る人間も多少はいた。
オーストラリア外相のギャレス・エヴァンス氏は、1990年にこう述べている。
「世界はきわめて不公正な場だ。武力での奪取の例はめずらしくない」。そして、「武力による領土獲得を認めないという法的拘束力のある義務は存在しない」がゆえに、オーストラリアは、事態をそのまま受け入れて、ティモール原油を征服者と分けあうことになるかもしれない、と。
もっとも、この特赦的扱いは、クウェート原油をめぐるリビアイラクの取り決めに対しては、適用されることはまず考えられなかったであろう。
一方、オーストラリア首相のボブ・ホーク氏は次のように宣言していた。
イラククウェートの件について)、「大国が隣の小国に侵攻して、それでおとがめなしで済むなど許されることではない」。そして、「好戦的な国は隣接する小国に侵攻するのをためらうようになるだろう」、「国際関係においては、法の支配が力の支配に優越しなければならぬ」という戒めをきもに銘じたならば、と。
けれども、それは、「国益」がそう指示した場合にかぎっての話なのである。

 

ティモール問題は、1991年の11月にも、再度光があたった。先の暗殺事件にからむ墓地での追悼儀式をインドネシア国軍が強襲して、何百人かが死亡し、米国の記者2人も手ひどい暴行を受けたのだ(訳注: いわゆる「サンタクルス虐殺事件」)。
この戦略上の失敗は、例のごとく隠蔽工作の対象となった。欧米の指導者たちはそれに何の不満も抱かないようだった。石油探査業務はとどこおりなく進められた。暗殺事件後の半年のうちにオーストラリア、英国、日本、オランダ、米国などの企業との契約成立が報じられた。
「資本主義を奉じる統治者にとっては」と、ティモール人のある聖職者は書いている。「ティモールの人々の血と涙よりもティモールの蔵する石油の方がかんばしい香りがするのだ」。

 

インドネシア政府がなぜ「靴をぬぐこと」を検討したか、その主な理由は、ピルジャー氏の著書の東ティモールに関する章の最後の方で言及されている。
その理由は、「東ティモールの人々の持続的勇敢さであり、彼らは丘の斜面に十字架が次々と立とうとも、侵略者に抗し続けた」。これは、くり返し、「絶対的な権力の誤りやすさ、そして、他者の冷笑的諦観を想起させてくれるもの」だ。

 

けれども、彼らがどんなに勇敢であろうと、外部からの支援がなければ、希望を抱くことはむずかしい。どれほどの勇気と団結が存在しようと、インドネシア政府による入植、残虐行為、先住民固有の文化の破壊は、列強の資金拠出と支持を得ていれば、押しとどめることは容易ではない。

 

ペースは実に緩慢であったけれども、ティモールの人々の権利に対する支援は、米国でも無視できないレベルにようやく達した。真実がついに公共空間に浸透し始め、メディアはこの話題を取り上げざるを得なくなっており、「現実路線」への足かせは強まった。

 

上記1991年の大量殺戮が起こった周年日のボストン・グローブ紙には、次のような見出しが載った。
インドネシア将校、起訴を受け、ボストンを離脱」。
当該の将校は、事件の後、修学のためハーバード大学に送られていたが、ある女性の代理人によって訴訟を起こされ、罪を問われた。女性の息子は、事件の舞台である墓地で殺害された人々の一人であった。
(その後も、事件の犠牲者の身元が次々と明らかになった。これは、ピルジャー氏、そして、勇気あるインドネシアの学者、ジョージ・アディチョンドロ氏両人のおかげである。アディチョンドロ氏は、インドネシアの残虐行為の途方もない軌跡を裏づける、20年来の調査に基づいた報告書を発表した)

 

一般人の認識が深まり、擁護活動がさかんになった結果、米国お気に入りの大量虐殺者たちは、もはや米国を心地よい避難所とすることができなくなった。それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった。

 

米国議会はインドネシアに対する軍事援助と軍事訓練に制限をもうけるに至った。ホワイトハウスはいよいよ手の込んだやり方でこれを回避しなければならなくなった。とりわけ、ここ数ヶ月はそうである。
英国は、チャンス到来を察して、サッチャー政権の導きの下、戦争犯罪というきわめて旨みのある事業でトップを取ろうとたくみに動いた。
防衛調達担当大臣のアラン・クラーク氏はこう述べている。
兵器売却によって利潤が得られるのであれば、「ある外国人の一団が他の外国人の一団に何をしようが、私は大して心をわずらわせない」。
約60年前、英国の政治家ロイド・ジョージは、「土人どもを爆撃する権利は保持しなければならぬ」と洞察したが、われわれは今なおその権利を手放してはならぬというわけである。

 

ジョン・ピルジャー氏の近年の仕事-----たとえば、氏自身が現地取材した東ティモールに関する傑出したドキュメンタリーの『ある国家の死』等-----は、欧米の一般市民の意識を高め、自国の名前でどんな犯罪行為がなされているかをより深く認識させるよう働く。
その意義の大きさは、政府高官から逆上的な反応を引き出したことからも明らかである。現実世界をおおい隠す虚偽のベールを引っぱがしたことは、決してささやかな功績ではない。
とは言うものの、それが他の多くの場合と同様に無に帰さないためには、一般市民の反応が単なる意識の高まりにとどまらず、行動に結びついて、犯罪行為の恥ずべき共犯者たることに終止符が打たれなければならない。

 

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[その他の訳注・補足など]


訳文中の
「一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した」
について。
これは、具体的には、国連においてインドネシア政府に対する非難決議がなされないように働きかける、インドネシア政府に対する経済制裁措置などの成立をはばむ、などを意味するであろう。
この場合の「困惑」は外交的な婉曲表現である。

 


本文中には、CIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏の言葉が引用されているが、米国政府とCIAがスハルト政権による大量虐殺に関与していたことは、近年、外交文書の公開によって明らかになっている。

ウィキペディアの「スハルト」の項から一部を引用すると、

 

スハルト元大統領がスカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9月30日事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシア諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。(以下略)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/スハルト

 


今回の文章が浮き彫りにしているように、米国もしくは米国の同盟国がおこなう侵攻や残虐行為は、英米大手メディアで客観的、大々的に報じられることを期待できない。
一方、米国の敵対国、対立勢力が同じようなふるまいをした場合、モラルや人道の観点が声高に持ち出される。

クウェートに侵攻した際のイラクに対して、国内で人民を大量虐殺した共産主義ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)に対して、アフガニスタンに侵攻したソ連に対して、天安門事件をひき起こした中国に対して、等々。

 

大量虐殺と言えば、人々の脳裏にまず浮かぶのは、ヒトラーポル・ポト政権であって、インドネシアスハルト政権ではない。政府と大手メディアによるプロパガンダ、印象操作がみごとに奏功しているというほかない。

 

それらプロパガンダや印象操作の仕組み、様態、等々を詳細に分析したのが、チョムスキー氏とエドワード・ハーマン氏の共著『Manufacturing Consent』であった。

 

スハルト政権とポル・ポト政権の大量虐殺をめぐる米国政府と大手メディアの対照的な扱いについては、この『Manufacturing Consent』だけでなく、同じくハーマン氏との共著
『The Washington Connection and Third World Fascism(The Political Economy of Human Rights - Volume I)』、
と、その続編の
『After the Cataclysm - Postwar Indochina and The Reconstruction of Imperialist Ideology(The Political Economy of Human Rights - Volume II)』
においても、詳細に論じられている。
(ちなみに、この著作は、出版元の親会社からの圧力によって初版が販売停止になったといういわくつきの書である)

 


本文中の
「それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった」
について。

 

このエクトル・グラマホ将軍の裁判に関して、今、グーグルで検索してみると、大手メディアによる記事はまったく見当たらない。恐るべき報道抑制である。
米国当局の関与が浮き彫りになるから、というのがその理由であろう。これが、ロシアや中国が関与していた事件の裁判案件であったら、どうなっていたであろうか。
読者諸氏は、各自でその検索結果と報道抑制のありさまを確認していただきたい。

 


インドネシア政府の東ティモール侵攻を米国が支援したのは、資源掌握等の国益からであったが、それは、これより約30年後のイラク戦争においても主要動機の一つであった。

それについては、本ブログのコレクション・2[そりゃ帝国主義だ、ボケ!]の本文およびその「その他の訳注と補足など」の補足・2を参照。