チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・6

 

[恐れの活用]


原題は
The Manipulation of Fear


今回の文章は、いろいろと含みの多い一文である。コラムと言うよりは、さまざまな考察をはらんだエッセイと呼ぶべきか。
タイトルが示唆するテーマは、為政者・権力者が一般大衆を支配するにあたって他国に対する恐れ・脅威感を利用するという事情である。

 

しかし、これ以外にも、この文章では、チョムスキー氏の長年の関心事であるさまざまなテーマが含まれている。すなわち、政府や大手メディアのプロパガンダ、知識人の責任、連合国側の戦争責任、人種差別的感情、米国の拡張主義・帝国主義、等々。

 

日本人としての観点から言えば、現代の米英政権の依拠する「予防的自衛」理論が、日本の真珠湾攻撃を引き合いにして、間接的に批判されている箇所が非常に興味をそそる。


原文サイトは
https://chomsky.info/20050716/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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The Manipulation of Fear
恐れの活用


ノーム・チョムスキー
『テヘルカ』誌 2005年7月16日

 

国民を律するべく、権力者側が恐れの感情を利用することは、流血や苦難の長く悲惨な航跡を歴史の上にとどめてきた。この点を無視するのは、みずから危険をまねくことである。近年の歴史においても、数々のおぞましい実例にこと欠かない。

 

20世紀半ばにわれわれは、おそらくモンゴル帝国の侵攻以来、もっとも残虐な犯罪行為を目の当たりにした。それをおこなったのは、西欧文明がその輝きを最高度に放っていた国であった。
ドイツは科学、美術、文学、人文系学問、その他歴史的な達成をなし遂げた分野の中心地であり、先導国だったのだ。第一次世界大戦の前、すなわち、欧米で「反ドイツ」の熱狂が鼓舞される以前は、米国の政治学者らも、ドイツを民主主義国のお手本であり、他の欧米諸国が見ならうべき存在と考えていた。
ところが、1930年代半ばになると、ドイツは2、3年のうちに、歴史上ほかにほとんど類のない野蛮国に属するとされてしまった。さらにおどろくべきことには、もっとも高い教育を受けた、品のよい層の人々でさえ、こういう見方に与したのである。

 

ヴィクトール・クレンペラー氏(訳注: ドイツの言語学者)は、ナチ政権下のユダヤ人としての生活を日記につづった(ほとんど奇跡に近い経緯で毒ガス室行きをまぬがれている)。
その驚嘆すべき日記の一節で、同氏は、友人のあるドイツ人教授にふれ、以下のように書き記している。それまで大いに敬服していたが、結局、ナチの側についた人物である。
「もし、ある日、状況が逆転し、敗者の運命が自分の手にゆだねられたとしたら、私は一般市民の全員を無罪放免とするだろう。いや、指導者らの何人かさえそうするだろう。結局のところ、彼らはたぶんりっぱな志を抱いていたのだろうし、自分たちのやっていることがよくわかっていなかった。だが、知識人には一人残らず首をくくってもらおう。あの教授連中はとりわけ、他の人間より1メートルほど高く吊るそう。衛生の観点からどうにもならなくなるまで、街灯柱に吊るしっぱなしにするのだ」。

 

クレンペラー氏の反応はそれほど不自然ではない。それは、歴史の大方にも当てはめることができる。

 

複雑な歴史上の出来事には、つねにさまざまな原因が考えられる。このドイツの件に関して非常に重要な要素は、恐れ・脅威感のたくみな活用である。
ドイツの「一般市民」は、世界支配をたくらむ「ユダヤ人とボルシェビキによる陰謀」を恐れるよう駆り立てられた。ドイツ民族はその存続の危機に直面したのである。したがって、「自己防衛」のために過激な手段が講じられねばならなかった。高名な知識人たちは通常の垣根をこえるふるまいに出た。

 

ナチの暗雲がドイツ全土をおおいつつある1935年に、マルティン・ハイデッガーは、祖国を世界で「もっとも危機に瀕した」国と形容した。文明そのものを攻撃する「巨大なペンチ」にドイツは締め上げられている。そのもっとも粗野な形態はロシアとアメリカが体現し、先導している、と。

ドイツは、この巨大で野蛮な力の最大の被害者であるばかりではない。「諸国中、もっとも形而上学的な国」であるドイツは、この力への抵抗運動を主導すべき責務がある。「西洋世界の中核を占める」ドイツは、「古典期ギリシア」の偉大な遺産を「壊滅」から守らねばならない。その際、頼りとするのは、「歴史的にずっとその中核から展開されてきた精神的活力」である。
その「精神的活力」は、ハイデッガーがこれらの言葉を述べた頃には、十分すぎるほど明らかな形で展開していた。ハイデッガーおよび他の主流知識人たちは、上のような言説にずっと忠実であり続けた。

 

虐殺と殲滅の発作は、人類を悲惨な最期にみちびく可能性がきわめて高い兵器を使ったからといって、終息したわけではなかった。
また、われわれが銘記すべきは、これら人類を絶滅にみちびく可能性のある兵器を創り出したのは、近代文明における、もっとも怜悧で善良な、高度な教育を受けた人間たちであったことである。
彼らは、他と隔絶した状態で研究し、自分たちが取り組んでいる課題の壮麗さに心をうばわれ、結果がもたらすものについては、ほとんど気に留めなかったように思われる。核兵器に対する科学者たちの真摯な抗議行動は、シカゴ大学の研究室で始まったが、それは、原爆製造における彼らの役割が終了してからのことであった。ニューメキシコ州ロス・アラモスでは、原爆製造の工程は停止することなく、結局、あの悲惨な最終幕をむかえるに至った。
もっとも、正確に言えば、最終幕ではなかったのである。

 

米国空軍の公式記録文書には、以下の事実が記されている。
長崎に原爆が投下され、日本の無条件降伏が確実と見られた時期、米陸軍航空軍司令官のハップ・アーノルド大将は「可能なかぎり壮大なフィナーレ」を欲した、と。
それは、防御する術をもたない日本の都市への航空機1000機による白昼爆撃である。その最後発の爆撃機が基地に帰還したのは、ちょうど無条件降伏への同意(訳注: いわゆる「ポツダム宣言の受諾」)が公式に伝えられた頃であった。
また、太平洋戦略航空軍を指揮したカール・スパーツ大将は、3発目の原爆が東京に落とされることを壮大なフィナーレとして望んでいた。
しかし、説得されて、この案を取り下げた。東京は「貧相な標的」だったからである。3月の入念、巧緻な空襲作戦によってすでに焦土と化していたのだ。
この空襲により約10万人の焼死者が出たと考えられている。歴史上、まれに見る凶悪な犯罪である。

 

これらの事実は、戦争犯罪法廷では考慮されていない。また、大方は歴史から除外されている。現在では、市民運動家や専門家を除いて、これらの事実を知っている人間はごく少ない。
あの当時、これらの犯罪行為は、自国防衛という合法的なふるまいとして堂々と称賛された。邪悪な敵、日本は、米国の植民地であるハワイやフィリピンの軍事基地を爆撃したことで、究極の悪行のレベルに至ったと見なされたのである。

 

おそらく以下の点は留意するに値するであろう。
1941年12月の日本の真珠湾攻撃(「屈辱の日として記憶にとどめられるであろう」とルーズベルト大統領がおごそかに宣した)は、「予防的自衛」(訳注: 原語は anticipatory self-defence)の理論にしたがえば、十分に正当性を主張できる、と。
(この「予防的自衛」理論は、今日の自称「開明的な国」、すなわち米国とそのパートナーである英国、の指導者たちの間では、広く支持されている)
当時の日本の指導者たちは、「空飛ぶ要塞」と呼ばれるB-17爆撃機ボーイング社の製造ラインから次々と生み出されているのを知っていた。また、米国でどのような論が展開しているかについてもまちがいなく承知していた。つまり、「殲滅戦」において木造建築物主体の日本の都市を焼き払うべく、いかにB-17爆撃機を用いるべきかが論じられていた。ハワイやフィリピンの基地から飛び立たせ、「竹で建てられた膨大な数のアリ塚への火炎攻撃により、大日本帝国の産業の心臓部を焼きつくすこと」が、そのねらいであった。この表現は、米陸軍航空隊の将校であったクレア・リー・シェンノート氏が、1940年にルーズベルト大統領に進言した際の言葉である。この案を、大統領は「手放しで喜んだ」。
明らかに、これらは、ハワイやフィリピンの軍事基地を爆撃する強力な正当事由となり得る。それは、ブッシュ、ブレア両人とそのお仲間たちが「先制攻撃戦争」を敢行するためにひねり出した言説、そして、明確な意見を述べる人々の大半が戦術的な観点から留保を付しつつ受け入れてきた言説、それらよりもはるかに強力な正当事由である。

 

しかし、この比較は不適切なのである。「竹で建てられた膨大な数のアリ塚」に住まう人間たちは、恐れや脅威といった感情を持つに値しないというわけなのだ。
このような感情や意識は限定的な特権であって、その特権が付与されるのは、チャーチルの言葉によれば、「自分の住まいで心安らかに暮らしている裕福な人間たち」、「満ち足りた国々」に対してである。
かかる存在は「自分が今所有しているもののほかは望まない」し、また、それゆえに、「世界政府をまかせなければならぬ」存在である-----もし、平和というものがあり得るとすれば。
もっとも、それはある種の平和にすぎず、その平和の下では、裕福な人間たちは恐れや脅威という感情をまぬがれていなければならない。

 

「裕福な人間たち」がどれほど恐れ・脅威という感情から隔離されていなければならぬか-----この問いは、権力者がひねり出した「予防的自衛」なる新教義を考察する著名な研究者によって、鮮やかに明かされている。
歴史面での考察もあわせ持って、もっとも重要な貢献をはたしたのは、当代一流の歴史学者でイェール大学教授をつとめるジョン・ルイス・ギャディス氏である。
同氏は、ブッシュ大統領の教義の淵源を、同大統領の敬慕する、一流の知識人であり卓越した戦略家であるジョン・クインシー・アダムズに見出す。
ニューヨーク・タイムズ紙の表現を借りるならば、「テロと戦うためのブッシュ大統領の対応の大枠は、ジョン・クインシー・アダムズウッドロー・ウィルソンの崇高で理想主義的な伝統に根ざしていることを、ギャディス教授は示した」。

 

ウッドロー・ウィルソンの恥ずべき功績については今は措き、「崇高で理想主義的な伝統」の淵源の方を、ここでは取り上げたい。
その伝統を打ち立てたのはジョン・クインシー・アダムズであった。彼は、有名な政府文書の中で、1818年の第一次セミノール戦争におけるアンドリュー・ジャクソンのフロリダ占領を正当化したのである。
当該の戦争は自己防衛として正当化される、とアダムズは主張した。ギャディス教授は、動機が正当な国家安全保障上の懸念であることを認める。教授の見解によれば、英国軍が1814年に「ワシントン焼き討ち」をおこなった後、米国の指導者らは、「支配地拡大が国家安全保障への道」であると了解し、その線にそって、フロリダを侵略・併合したのであった。
この教義は、今やブッシュ大統領によって、全世界を対象とするまでに拡張されたのである、とギャディス教授はいみじくも述べる。

 

教授は、しかるべき学術文献からあれこれ引用している。とりわけ、歴史学者のウィリアム・アール・ウィークス氏のものから。ところが、教授の文章では、それら文献の叙述から省かれている部分がある。われわれは、目下の教義のさまざまな先例、また、現在の共通認識について、ギャディス教授の省いた部分に目を向けることで、多くの示唆を得ることができる。
ウィークス氏は、細部までめざましい鮮やかさで、ジャクソンのおこなったこと-----「第一次セミノール戦争として知られる、殺戮と略奪の実演興行」でおこなったこと-----を描出してくれる。それは、1814年以前からずっと進行中であった、「米国南東部から先住民族を駆逐もしくは殲滅する」という彼の企てにおける、ほんの一階梯にすぎなかった。
フロリダが問題とされたのは、膨張するアメリカ帝国にまだ繰り入れられていないから、そして、「ジャクソンの『怒り』や奴隷制度から逃れようとするインディアンと逃亡奴隷の避難所」となっていたから、であった。

 

確かにインディアン側からの攻撃はあった。ジャクソンとアダムズはそれを口実に利用したのである。
米軍は、セミノール族を彼らの土地から追い出し、幾人かを殺害し、村を焼き払った。セミノール族は、これに対し、米軍指揮下の補給船を襲うことで報復した。ジャクソンは、もっけの幸いとばかりに、「テロ、破壊、威嚇からなる一大軍事作戦を開始した」。村を壊滅させるだけでなく、「セミノール族を飢餓に追いやる周到な試みの一環として、食料源も焼尽した。彼らは『神の怒り』ならぬ『ジャクソンの怒り』を逃れんとして沼沢地に隠れた」。
こうした事態がくり返され、やがてアダムズの、あの有名な政府文書に至る。それは、ジャクソンの、正当な理由のない侵略にお墨つきをあたえた。「おぞましい暴力と流血を土台として」、フロリダに「アメリカの支配権」を確立するための侵略に。

 

上記の引用部分は、スペイン大使の言葉である。ウィークス氏は、「痛切なまでに的確な描写」と評している。
アダムズは「議会と国民の双方に対し、米国の外交政策の目標と実際のふるまいに関して、意図的に歪曲し、擬装し、嘘をついた」-----こう、ウィークス氏は述べる。自分の標榜する道徳原則をあからさまに踏みにじり、「インディアンの排除と奴隷制度を暗に擁護した」、と。
ジャクソンとアダムズの犯罪は「(セミノール族に対する)殲滅戦の第二幕の発端にすぎなかった」。生き残った者は西部に落ちのび、結局、後に同じ運命をたどることになった。「そうでなければ、フロリダで殺されるか、そのうっそうとした沼沢地に隠れ住むことを余儀なくされるかどちらかであった」。
今日では、とウィークス氏は締めくくる。「セミノール族は、一般国民の意識の中では、フロリダ州立大学のマスコットとしてとどまっているにすぎない」。これは、典型的で教訓的な事例である。

 

煎じつめれば、アダムズらの言説の枠組みは3つの柱からなっている(ウィークス氏)。
すなわち、「アメリカが独自の道徳的美徳を持っているとの想定」、みずからの標榜する理想と「米国式生活様式」の普及を通して「世界を救うことが米国の使命だとする主張」、米国の「神によって定められた運命」に対する信仰、である。
この宗教的な枠組みは、筋の通った議論をさまたげる。また、政策課題を善か悪かの二者択一に引き下げてしまう(これにより、権力者層・支配者層にとっての脅威である民主主義は力を削がれてしまう)。批判者は時に「反米」として一顧だにされない。これは、全体主義の表現集から採られた、興味深い考え方である。そして、一般国民は、権力の傘の下で身をちぢこまらせなければならない-----自分の生と運命が迫りくる脅威にさらされているとおびえながら……。

 

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[その他の訳注・補足など]

■その他の訳注・1
訳文中の

「批判者は時に「反米」として一顧だにされない。これは、全体主義の表現集から採られた、興味深い考え方である」

について。

 

ここでの「興味深い考え方である」とは、チョムスキー氏のいつもの皮肉を込めた表現である。「興味深い」とは、「普通ではない」という意味で「興味深い」のである。
ここは、ストレートに表現すれば、「おかしい考え方」、「不適切な考え方」ということになるであろう。

 

政府の方針、施策などに問題があれば批判する、異を唱えるのは民主制下では普通のことである。民主主義の基本であると言ってよい。それを許さないのは全体主義にほかならない。

 

また、もっと前の「しかし、この比較は不適切なのである。~」の部分も皮肉・反語である。ここでは、権力者・支配者たちの思考を代わって表現してみせているにすぎない。

 

チョムスキー氏の文章には、このように、皮肉・反語や含みが多い。今回の文章でも、これ以外にあちこち見出されるが、煩をきらって、以上の点だけにとどめておく。

 

■補足・1
前書きでふれた、チョムスキー氏の長年の関心事の、とりわけ「政府や大手メディアのプロパガンダ」については、コレクション・1の末尾訳注の「補足・2」を参照。

 

また、「連合国側の戦争責任」、ことに日本を裁いた「東京裁判」などに関するチョムスキー氏の考え方については、コレクションの「番外編・1」を参照。