チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・6

 

[恐れの活用]


原題は
The Manipulation of Fear


今回の文章は、いろいろと含みの多い一文である。コラムと言うよりは、さまざまな考察をはらんだエッセイと呼ぶべきか。
タイトルが示唆するテーマは、為政者・権力者が一般大衆を支配するにあたって他国に対する恐れ・脅威感を利用するという事情である。

 

しかし、これ以外にも、この文章では、チョムスキー氏の長年の関心事であるさまざまなテーマが含まれている。すなわち、政府や大手メディアのプロパガンダ、知識人の責任、連合国側の戦争責任、人種差別的感情、米国の拡張主義・帝国主義、等々。

 

日本人としての観点から言えば、現代の米英政権の依拠する「予防的自衛」理論が、日本の真珠湾攻撃を引き合いにして、間接的に批判されている箇所が非常に興味をそそる。


原文サイトは
https://chomsky.info/20050716/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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The Manipulation of Fear
恐れの活用


ノーム・チョムスキー
『テヘルカ』誌 2005年7月16日

 

国民を律するべく、権力者側が恐れの感情を利用することは、流血や苦難の長く悲惨な航跡を歴史の上にとどめてきた。この点を無視するのは、みずから危険をまねくことである。近年の歴史においても、数々のおぞましい実例にこと欠かない。

 

20世紀半ばにわれわれは、おそらくモンゴル帝国の侵攻以来、もっとも残虐な犯罪行為を目の当たりにした。それをおこなったのは、西欧文明がその輝きを最高度に放っていた国であった。
ドイツは科学、美術、文学、人文系学問、その他歴史的な達成をなし遂げた分野の中心地であり、先導国だったのだ。第一次世界大戦の前、すなわち、欧米で「反ドイツ」の熱狂が鼓舞される以前は、米国の政治学者らも、ドイツを民主主義国のお手本であり、他の欧米諸国が見ならうべき存在と考えていた。
ところが、1930年代半ばになると、ドイツは2、3年のうちに、歴史上ほかにほとんど類のない野蛮国に属するとされてしまった。さらにおどろくべきことには、もっとも高い教育を受けた、品のよい層の人々でさえ、こういう見方に与したのである。

 

ヴィクトール・クレンペラー氏(訳注: ドイツの言語学者)は、ナチ政権下のユダヤ人としての生活を日記につづった(ほとんど奇跡に近い経緯で毒ガス室行きをまぬがれている)。
その驚嘆すべき日記の一節で、同氏は、友人のあるドイツ人教授にふれ、以下のように書き記している。それまで大いに敬服していたが、結局、ナチの側についた人物である。
「もし、ある日、状況が逆転し、敗者の運命が自分の手にゆだねられたとしたら、私は一般市民の全員を無罪放免とするだろう。いや、指導者らの何人かさえそうするだろう。結局のところ、彼らはたぶんりっぱな志を抱いていたのだろうし、自分たちのやっていることがよくわかっていなかった。だが、知識人には一人残らず首をくくってもらおう。あの教授連中はとりわけ、他の人間より1メートルほど高く吊るそう。衛生の観点からどうにもならなくなるまで、街灯柱に吊るしっぱなしにするのだ」。

 

クレンペラー氏の反応はそれほど不自然ではない。それは、歴史の大方にも当てはめることができる。

 

複雑な歴史上の出来事には、つねにさまざまな原因が考えられる。このドイツの件に関して非常に重要な要素は、恐れ・脅威感のたくみな活用である。
ドイツの「一般市民」は、世界支配をたくらむ「ユダヤ人とボルシェビキによる陰謀」を恐れるよう駆り立てられた。ドイツ民族はその存続の危機に直面したのである。したがって、「自己防衛」のために過激な手段が講じられねばならなかった。高名な知識人たちは通常の垣根をこえるふるまいに出た。

 

ナチの暗雲がドイツ全土をおおいつつある1935年に、マルティン・ハイデッガーは、祖国を世界で「もっとも危機に瀕した」国と形容した。文明そのものを攻撃する「巨大なペンチ」にドイツは締め上げられている。そのもっとも粗野な形態はロシアとアメリカが体現し、先導している、と。

ドイツは、この巨大で野蛮な力の最大の被害者であるばかりではない。「諸国中、もっとも形而上学的な国」であるドイツは、この力への抵抗運動を主導すべき責務がある。「西洋世界の中核を占める」ドイツは、「古典期ギリシア」の偉大な遺産を「壊滅」から守らねばならない。その際、頼りとするのは、「歴史的にずっとその中核から展開されてきた精神的活力」である。
その「精神的活力」は、ハイデッガーがこれらの言葉を述べた頃には、十分すぎるほど明らかな形で展開していた。ハイデッガーおよび他の主流知識人たちは、上のような言説にずっと忠実であり続けた。

 

虐殺と殲滅の発作は、人類を悲惨な最期にみちびく可能性がきわめて高い兵器を使ったからといって、終息したわけではなかった。
また、われわれが銘記すべきは、これら人類を絶滅にみちびく可能性のある兵器を創り出したのは、近代文明における、もっとも怜悧で善良な、高度な教育を受けた人間たちであったことである。
彼らは、他と隔絶した状態で研究し、自分たちが取り組んでいる課題の壮麗さに心をうばわれ、結果がもたらすものについては、ほとんど気に留めなかったように思われる。核兵器に対する科学者たちの真摯な抗議行動は、シカゴ大学の研究室で始まったが、それは、原爆製造における彼らの役割が終了してからのことであった。ニューメキシコ州ロス・アラモスでは、原爆製造の工程は停止することなく、結局、あの悲惨な最終幕をむかえるに至った。
もっとも、正確に言えば、最終幕ではなかったのである。

 

米国空軍の公式記録文書には、以下の事実が記されている。
長崎に原爆が投下され、日本の無条件降伏が確実と見られた時期、米陸軍航空軍司令官のハップ・アーノルド大将は「可能なかぎり壮大なフィナーレ」を欲した、と。
それは、防御する術をもたない日本の都市への航空機1000機による白昼爆撃である。その最後発の爆撃機が基地に帰還したのは、ちょうど無条件降伏への同意(訳注: いわゆる「ポツダム宣言の受諾」)が公式に伝えられた頃であった。
また、太平洋戦略航空軍を指揮したカール・スパーツ大将は、3発目の原爆が東京に落とされることを壮大なフィナーレとして望んでいた。
しかし、説得されて、この案を取り下げた。東京は「貧相な標的」だったからである。3月の入念、巧緻な空襲作戦によってすでに焦土と化していたのだ。
この空襲により約10万人の焼死者が出たと考えられている。歴史上、まれに見る凶悪な犯罪である。

 

これらの事実は、戦争犯罪法廷では考慮されていない。また、大方は歴史から除外されている。現在では、市民運動家や専門家を除いて、これらの事実を知っている人間はごく少ない。
あの当時、これらの犯罪行為は、自国防衛という合法的なふるまいとして堂々と称賛された。邪悪な敵、日本は、米国の植民地であるハワイやフィリピンの軍事基地を爆撃したことで、究極の悪行のレベルに至ったと見なされたのである。

 

おそらく以下の点は留意するに値するであろう。
1941年12月の日本の真珠湾攻撃(「屈辱の日として記憶にとどめられるであろう」とルーズベルト大統領がおごそかに宣した)は、「予防的自衛」(訳注: 原語は anticipatory self-defence)の理論にしたがえば、十分に正当性を主張できる、と。
(この「予防的自衛」理論は、今日の自称「開明的な国」、すなわち米国とそのパートナーである英国、の指導者たちの間では、広く支持されている)
当時の日本の指導者たちは、「空飛ぶ要塞」と呼ばれるB-17爆撃機ボーイング社の製造ラインから次々と生み出されているのを知っていた。また、米国でどのような論が展開しているかについてもまちがいなく承知していた。つまり、「殲滅戦」において木造建築物主体の日本の都市を焼き払うべく、いかにB-17爆撃機を用いるべきかが論じられていた。ハワイやフィリピンの基地から飛び立たせ、「竹で建てられた膨大な数のアリ塚への火炎攻撃により、大日本帝国の産業の心臓部を焼きつくすこと」が、そのねらいであった。この表現は、米陸軍航空隊の将校であったクレア・リー・シェンノート氏が、1940年にルーズベルト大統領に進言した際の言葉である。この案を、大統領は「手放しで喜んだ」。
明らかに、これらは、ハワイやフィリピンの軍事基地を爆撃する強力な正当事由となり得る。それは、ブッシュ、ブレア両人とそのお仲間たちが「先制攻撃戦争」を敢行するためにひねり出した言説、そして、明確な意見を述べる人々の大半が戦術的な観点から留保を付しつつ受け入れてきた言説、それらよりもはるかに強力な正当事由である。

 

しかし、この比較は不適切なのである。「竹で建てられた膨大な数のアリ塚」に住まう人間たちは、恐れや脅威といった感情を持つに値しないというわけなのだ。
このような感情や意識は限定的な特権であって、その特権が付与されるのは、チャーチルの言葉によれば、「自分の住まいで心安らかに暮らしている裕福な人間たち」、「満ち足りた国々」に対してである。
かかる存在は「自分が今所有しているもののほかは望まない」し、また、それゆえに、「世界政府をまかせなければならぬ」存在である-----もし、平和というものがあり得るとすれば。
もっとも、それはある種の平和にすぎず、その平和の下では、裕福な人間たちは恐れや脅威という感情をまぬがれていなければならない。

 

「裕福な人間たち」がどれほど恐れ・脅威という感情から隔離されていなければならぬか-----この問いは、権力者がひねり出した「予防的自衛」なる新教義を考察する著名な研究者によって、鮮やかに明かされている。
歴史面での考察もあわせ持って、もっとも重要な貢献をはたしたのは、当代一流の歴史学者でイェール大学教授をつとめるジョン・ルイス・ギャディス氏である。
同氏は、ブッシュ大統領の教義の淵源を、同大統領の敬慕する、一流の知識人であり卓越した戦略家であるジョン・クインシー・アダムズに見出す。
ニューヨーク・タイムズ紙の表現を借りるならば、「テロと戦うためのブッシュ大統領の対応の大枠は、ジョン・クインシー・アダムズウッドロー・ウィルソンの崇高で理想主義的な伝統に根ざしていることを、ギャディス教授は示した」。

 

ウッドロー・ウィルソンの恥ずべき功績については今は措き、「崇高で理想主義的な伝統」の淵源の方を、ここでは取り上げたい。
その伝統を打ち立てたのはジョン・クインシー・アダムズであった。彼は、有名な政府文書の中で、1818年の第一次セミノール戦争におけるアンドリュー・ジャクソンのフロリダ占領を正当化したのである。
当該の戦争は自己防衛として正当化される、とアダムズは主張した。ギャディス教授は、動機が正当な国家安全保障上の懸念であることを認める。教授の見解によれば、英国軍が1814年に「ワシントン焼き討ち」をおこなった後、米国の指導者らは、「支配地拡大が国家安全保障への道」であると了解し、その線にそって、フロリダを侵略・併合したのであった。
この教義は、今やブッシュ大統領によって、全世界を対象とするまでに拡張されたのである、とギャディス教授はいみじくも述べる。

 

教授は、しかるべき学術文献からあれこれ引用している。とりわけ、歴史学者のウィリアム・アール・ウィークス氏のものから。ところが、教授の文章では、それら文献の叙述から省かれている部分がある。われわれは、目下の教義のさまざまな先例、また、現在の共通認識について、ギャディス教授の省いた部分に目を向けることで、多くの示唆を得ることができる。
ウィークス氏は、細部までめざましい鮮やかさで、ジャクソンのおこなったこと-----「第一次セミノール戦争として知られる、殺戮と略奪の実演興行」でおこなったこと-----を描出してくれる。それは、1814年以前からずっと進行中であった、「米国南東部から先住民族を駆逐もしくは殲滅する」という彼の企てにおける、ほんの一階梯にすぎなかった。
フロリダが問題とされたのは、膨張するアメリカ帝国にまだ繰り入れられていないから、そして、「ジャクソンの『怒り』や奴隷制度から逃れようとするインディアンと逃亡奴隷の避難所」となっていたから、であった。

 

確かにインディアン側からの攻撃はあった。ジャクソンとアダムズはそれを口実に利用したのである。
米軍は、セミノール族を彼らの土地から追い出し、幾人かを殺害し、村を焼き払った。セミノール族は、これに対し、米軍指揮下の補給船を襲うことで報復した。ジャクソンは、もっけの幸いとばかりに、「テロ、破壊、威嚇からなる一大軍事作戦を開始した」。村を壊滅させるだけでなく、「セミノール族を飢餓に追いやる周到な試みの一環として、食料源も焼尽した。彼らは『神の怒り』ならぬ『ジャクソンの怒り』を逃れんとして沼沢地に隠れた」。
こうした事態がくり返され、やがてアダムズの、あの有名な政府文書に至る。それは、ジャクソンの、正当な理由のない侵略にお墨つきをあたえた。「おぞましい暴力と流血を土台として」、フロリダに「アメリカの支配権」を確立するための侵略に。

 

上記の引用部分は、スペイン大使の言葉である。ウィークス氏は、「痛切なまでに的確な描写」と評している。
アダムズは「議会と国民の双方に対し、米国の外交政策の目標と実際のふるまいに関して、意図的に歪曲し、擬装し、嘘をついた」-----こう、ウィークス氏は述べる。自分の標榜する道徳原則をあからさまに踏みにじり、「インディアンの排除と奴隷制度を暗に擁護した」、と。
ジャクソンとアダムズの犯罪は「(セミノール族に対する)殲滅戦の第二幕の発端にすぎなかった」。生き残った者は西部に落ちのび、結局、後に同じ運命をたどることになった。「そうでなければ、フロリダで殺されるか、そのうっそうとした沼沢地に隠れ住むことを余儀なくされるかどちらかであった」。
今日では、とウィークス氏は締めくくる。「セミノール族は、一般国民の意識の中では、フロリダ州立大学のマスコットとしてとどまっているにすぎない」。これは、典型的で教訓的な事例である。

 

煎じつめれば、アダムズらの言説の枠組みは3つの柱からなっている(ウィークス氏)。
すなわち、「アメリカが独自の道徳的美徳を持っているとの想定」、みずからの標榜する理想と「米国式生活様式」の普及を通して「世界を救うことが米国の使命だとする主張」、米国の「神によって定められた運命」に対する信仰、である。
この宗教的な枠組みは、筋の通った議論をさまたげる。また、政策課題を善か悪かの二者択一に引き下げてしまう(これにより、権力者層・支配者層にとっての脅威である民主主義は力を削がれてしまう)。批判者は時に「反米」として一顧だにされない。これは、全体主義の表現集から採られた、興味深い考え方である。そして、一般国民は、権力の傘の下で身をちぢこまらせなければならない-----自分の生と運命が迫りくる脅威にさらされているとおびえながら……。

 

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[その他の訳注・補足など]

■その他の訳注・1
訳文中の

「批判者は時に「反米」として一顧だにされない。これは、全体主義の表現集から採られた、興味深い考え方である」

について。

 

ここでの「興味深い考え方である」とは、チョムスキー氏のいつもの皮肉を込めた表現である。「興味深い」とは、「普通ではない」という意味で「興味深い」のである。
ここは、ストレートに表現すれば、「おかしい考え方」、「不適切な考え方」ということになるであろう。

 

政府の方針、施策などに問題があれば批判する、異を唱えるのは民主制下では普通のことである。民主主義の基本であると言ってよい。それを許さないのは全体主義にほかならない。

 

また、もっと前の「しかし、この比較は不適切なのである。~」の部分も皮肉・反語である。ここでは、権力者・支配者たちの思考を代わって表現してみせているにすぎない。

 

チョムスキー氏の文章には、このように、皮肉・反語や含みが多い。今回の文章でも、これ以外にあちこち見出されるが、煩をきらって、以上の点だけにとどめておく。

 

■補足・1
前書きでふれた、チョムスキー氏の長年の関心事の、とりわけ「政府や大手メディアのプロパガンダ」については、コレクション・1の末尾訳注の「補足・2」を参照。

 

また、「連合国側の戦争責任」、ことに日本を裁いた「東京裁判」などに関するチョムスキー氏の考え方については、コレクションの「番外編・1」を参照。

 

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・5

 

[強国の特権]


原題は
Prerogatives of Power


内容はタイトルの通り。
強国は自分に不都合な事実を無視するし、自分に都合のいいように歴史を強引に書き換えようとする。


原文サイトは
https://chomsky.info/20140205-2/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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Prerogatives of Power
強国の特権


ノーム・チョムスキー

『トゥルースアウト』 2014年2月5日

 

2013年もそろそろ終わろうとしている今、英BBCがWIN・ギャラップ・インターナショナルによる国際世論調査の結果について報じている。その調査の問いとは、
「現在、世界の平和に対する最大の脅威となっているのはどこの国だと思いますか?」
である。

 

回答では、かなりの差をつけてアメリカがトップであった。2位のパキスタンの得票数の約3倍である。

 

ところが、目下、米国の学術界とメディアで議論されているのはイランの封じ込めは可能かどうか、もしくは、国家安全保障上、NSA国家安全保障局)の大規模な監視システムは必要かどうか、である。

 

上の世論調査の結果を考慮するならば、もっと適切な議論テーマが考えられそうである。すなわち、アメリカの封じ込めは可能かどうか、そして、他国は、アメリカの脅威に直面した場合、その安全保障を確保できるかどうか、等々。

 

世界の一部の地域では、世界平和に対する脅威の点で、米国ははるかに突出した地位を占めると認識されている。とりわけ中東においてはそうである。その地の圧倒的多数の人々が、米国とその親密な同盟国イスラエルを、自分たちの直面するもっとも大きな脅威と見なしているのだ。この両国がたびたび引き合いに出すイランではなく。

 

中南米の人々なら、「キューバ独立の父」といわれるホセ・マルティ氏の洞察に異を唱えることはまずないであろう。1894年に同氏はこう書いた。

アメリカから離れれば離れるほど、[中央・南]アメリカの人々はより自由に、より豊かになるだろう」、と。

 

マルティ氏の洞察の正しさは、最近、またしても裏づけられた。
国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会が貧困問題を調査し、先月、その結果を発表した。

 

それによると、広範囲にわたる改革によって、ブラジル、ウルグアイベネズエラその他の国々では、貧困が劇的に縮小した。いずれも米国の影響が軽微であった国々である。それに対して、長く米国の支配的影響下にあったグアテマラホンジュラス等々は、なおも深刻な貧苦にあえいでいる。北米自由貿易協定の参加国で、比較的に富めるメキシコでさえ、貧困は由々しき問題で、2013年には100万人があらたに貧困層に加わった。

 

世界が懸念する事項-----世界平和に対する脅威など-----についての原因の数々は、米国でも時にあいまいな形でありながらも認識されてはいる。
たとえば、元CIA長官のマイケル・ヘイデン氏は、オバマ政権のドローン(無人攻撃機)による暗殺作戦について論じた際、こう述べた。
「目下のところ、これらの作戦行動に関する米国の法的根拠をうべなう政府は、地球上に存在しません。アフガニスタンとおそらくイスラエル以外は」、と。

 

普通の国であれば、自分が世界でどう見られているかが気になるであろう。わが「建国の父祖たち」の言葉を借りると「全世界の人々の意見を真摯に尊重する」ことに心を砕く国であるからには、気になって当然であろう。ところがどっこい、米国は並みの国ではないのだ。1世紀の間、米国は世界でもっとも旺盛な経済力をほこった。そして、第二次世界大戦以降、みずからまねいた要因もあって幾分衰退したとはいえ、その世界覇権を真におびやかす国は登場しなかった。

 

米国は、いわゆる「ソフト・パワー」を念頭に、自国の好ましいイメージを構築すべく、大規模な「広報外交」(別名プロパガンダ)キャンペーンを展開している。それは、時には、歓迎すべき価値のある施策をともなっていた。
だが、米国を平和に対する突出した脅威と世界が信じてゆずらない場合、米国メディアはその事実をめったに報じないのである。

 

自分の好まない事実にそしらぬ顔をすることは、無敵の強国が持つことのできる特権の一つである。また、これと密接に関連しているのは、歴史を大幅に書き換えることのできる権利である。

 

その現行の事例は、今なお激しさを増している、スンニ派シーア派の対立に関する嘆きに見出される。この対立は中東、とりわけ、イラクとシリアを悲惨の極みにたたき込んでいる。しかし、米国の論評に幅広くうかがわれる見解は、この対立・紛争が、この地域からの米軍の撤退という嘆かわしい結果により生じたとするものだ。米国の「孤立主義」がまねく危険の教訓というわけなのである。

 

より適切なのは、これとはまったく逆の見方であろう。イスラム諸国の紛争の根本原因はさまざまであるが、どうあっても否定し難いのは、この対立が米英主導のイラク侵攻によって大幅に激化したという点である。
また、侵攻自体がニュルンベルク裁判において「究極の国際犯罪」と定義されたこともくり返し強調すべき点である。侵攻が「究極の国際犯罪」であり、他の犯罪と一線を画すのは、それが後に引き続くあらゆる悪を内包するからであった。目下の惨状もこれにふくまれる。

 

この歴史の過激な書き換えをめざましい形で示すのは、ファルージャで進行中の残虐行為をめぐる米国の応答である。メディアで支配的な言説は、むなしい自己犠牲の痛みをうんぬんするものであり、米国兵士たちはファルージャを解放するために闘い、あるいは命を落としたのだとする。
2004年のファルージャ攻撃に関する報道を検証してみればすぐにわかることであるが、これは、侵攻という戦争犯罪のうちでもっとも凶悪でおぞましい部類に属していた。

 

ネルソン・マンデラ氏の死去もまた、「ヒストリカル・エンジニアリング(歴史工学)」と呼ばれるものの驚くべき働きについて、人を省察にみちびく機会をあたえてくれる。「ヒストリカル・エンジニアリング」とは、権力者の意にかなうよう歴史的事実を再編することである(末尾の訳注を参照)。

 

マンデラ氏は、ついに自分の自由を勝ち取った時、高らかにこう語った。
「獄中にいる間ずっと、キューバは私にとって啓示であったし、フィデル・カストロ氏は力の源泉として抜きん出た存在でした。…… [キューバの人々の勝利は]白人圧制者たちの無敵性という神話を打ち砕き、闘いに参与する南アフリカの多くの人々の精神を鼓舞しました。アパルトヘイトという業苦からわれわれの大陸、われわれ南アフリカの人間を解放する手引きとなったのです。…… アフリカとのからみでキューバが示した厚情の記録を、他のどんな国がしのげるでしょうか」

 

今日、プレトリアの記念公園「フリーダム・パーク」には、「名前の壁」と呼ばれる一角があり、そこには、米国の支援する南アフリカ軍の侵攻からアンゴラを守るために亡くなったキューバの人々の名前がきざまれている。彼らは、アンゴラから撤退せよとの米国の要求に頑として応じなかった。また、アンゴラを支え続けたキューバの何千人もの援助活動関係者-----経費の大方はキューバ政府が拠出した-----のことも、忘れ去られてはいない。

 

米国政府が認可する歴史説明は、これとはまったく異なっている。1988年に南アフリカは不法占領したナミビアからの撤退に同意した。これは、アパルトヘイト撤廃への道筋をととのえるものであった。同意後の早くから、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、このなりゆきを米国外交の「輝かしい功績」と称え、「レーガン政権による屈指の外交成果の一つ」と賛美した。

 

マンデラ氏と南アフリカ陣営とでは、なぜこれほどかけ離れた見方になるのか、その理由は、ピエロ・グレイへセス氏のすぐれた学術研究書『自由の理念: ハバナ、ワシントン、プレトリア-----アフリカ南部の闘争 1976年~1991年』の中で、詳細に分析されている。

 

グレイへセス氏が説得力のある形で示したことであるが、南アフリカによるアンゴラ侵攻と同地でのテロ活動およびナミビアの不法占領が終わりを告げたのは、南アフリカ国内における「黒人たちの熾烈な抵抗」とナミビアのゲリラの勇敢さに「キューバの軍事力」が加わったからであった。ナミビア解放軍は、公正な選挙が可能になるやいなや、やすやすと勝利を手にした。アンゴラでも同様に、選挙では、キューバの支持する側が優勢となった。しかし、米国は、南アフリカ軍が撤退を余儀なくされて以降も、対立する側の邪悪なテロリストたちを支援し続けた。

 

アパルトヘイト体制を、また、隣国に対するおそるべき略奪と破壊行為を最後まで強く支持したのは、実質上レーガン政権とその取り巻きたちだけであった。これらの恥ずべき行状は、米国では歴史からぬぐい去られるかもしれないが、世界の人々はおそらくマンデラ氏の言葉にうなづくであろう。

 

これらの例でも、その他のあり余る例においても明らかであるように、絶対的な強国は現実を忌避していられるのだ-----ある程度まで、であるが。

 

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[訳注・補足など]

■訳注・1

以下のサイト

Historical engineering - SourceWatch
https://www.sourcewatch.org/index.php/Historical_engineering

では、次のように説明されている。

 

(仮訳)
第一次世界大戦のさなか、米国の歴史家たちは、米国の国策に沿うよう歴史を書き換えることを申し出た。自分たちの提案したその偽計を表現するために使った言葉は「ヒストリカル・エンジニアリング(歴史工学)」であった」

 

■補足・1
米国の政府と大手メディアによるプロパガンダチョムスキー氏の生涯をつらぬく大きなテーマの一つであること、また、氏が若い頃からこれに敏感であったこと等は、本コレクション・1の「その他の訳注と補足など」を参照。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・4

 

[ある島国が血を流したまま横たわる]

 

原題は
An Island Lies Bleeding


今回のコラムは、チョムスキー氏が東ティモールの問題にふれた文章のうちで、もっとも早いもの(1994年7月)。

 

インドネシアによる東ティモール侵攻を、米国を初めとする各国が資源掌握、兵器売却益、その他の思わくから支援した点を浮き彫りにしたものである。そして、大手メディアは、同盟国インドネシア不法行為、米国その他がそれを支援しているという事実、その真の思わく、等々を正面切って大々的に取り上げようとはしなかった。

 

今回の文章は、事実や情報の多くを著名なドキュメンタリー映画監督であるジョン・ピルジャー氏の著作に負っているが、東ティモール問題の実相が世人に認識される上で、チョムスキー氏がこれ以降執筆した数々の文章がはたした貢献は、無視することができない。


原文サイトは
https://chomsky.info/19940705/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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An Island Lies Bleeding
ある島国が血を流したまま横たわる


ノーム・チョムスキー

『ガーディアン』紙 1994年7月5日

 

この悲惨な20世紀に起こった犯罪のうちで、インドネシア政府による東ティモール侵攻は特筆すべきものである。
規模の点からだけではない(人口比で言えば、おそらくホロコースト以来、最多の犠牲者数を計上しているが)。その犯罪行為を抑止すること、望めばいつでもそれを止めることが容易であった点において際立っている。
ジャカルタ空爆するという脅し、いや、制裁措置を課するという脅しさえ、必要ない。大国がこのインドネシア政府による犯罪に積極的に関与することをつつしむだけで十分であったろう。すなわち、殺人と拷問の実行者に武器を手渡すことをやめる、そして、ティモール・ギャップの海底油田の分捕り合戦に参加するのをやめることである。

 

これらの事情については、「知らなかった」では済まされない。今年、ジョン・ピルジャー氏の著作『ディスタント・ボイス』が再刊された。この中で、東ティモールに関する力のこもった、啓発的な叙述が展開されている。

 

2年ほど前、インドネシア外務大臣アリー・アラタス氏は述べた。インドネシア政府は東ティモールに関して重大な選択をせまられている。東ティモールは「靴の中の、角立った小石のような」存在と化した、と。
インドネシアに関する著名な専門家であるベネディクト・アンダーソン氏は、この言を、方針見直しの数ある兆候のうちの一つと捉えた。「この重大な選択の具体的中身についてアラタス氏は語らなかったが、その示唆するところは、『靴をぬいで小石を取り除いた方がいい』ということです」。こう、同氏は評する。

 

「角立った小石」と化したのは、欧米列強の反対があったからではない。とんでもない。西側諸国および日本は、このポルトガルの旧植民地にインドネシアが侵攻し、それを自国領土に組み入れることに進んで協力したのである。
ピルジャー氏の著作は、以下の事実を伝えている。
1975年、インドネシアは、12月7日からのあからさまな侵攻に先立って、破壊工作とテロ活動を開始した。しかし、これよりずっと以前に、ジャカルタの英国大使館は次のように報告していた。
「当地の情勢を鑑みるに、インドネシア東ティモールをできるかぎり迅速かつ目立たずに併合することは、まちがいなく英国の国益に資する。かりに状況が手づまりとなり、国連で議論が紛糾した場合、われわれは面を伏せ、インドネシア政府に反対する側につかないようにするのがよかろう」。

 

オーストラリアもまた、この見方に与する。
ピルジャー氏の著作には、同様に、以下のような事実が明かされている。
1975年の8月、ジャカルタ駐在のオーストラリア大使、リチャード・ウールコット氏は、機密電信で次のように伝えていた。
近々開始される侵攻に関して、オーストラリアは「原理・原則に基づいた姿勢ではなく実利的な態度」で臨むべきだ。なぜなら、「そういうものこそが国益と外交の本義だからである」。
同氏はまた、お決まりの「オーストラリアの安全保障上の国益」に言及しつつ、こう述べる。
ティモール・ギャップをめぐる協定に関しては、ポルトガルあるいは同国から独立した東ティモールとよりも、インドネシア政府と交渉した方が、はるかに有利な取引ができるであろう」。
「ウィルソン的理想主義」よりも「キッシンジャー流現実主義」に依拠するよう同氏は勧める。もっとも、この両者のちがいは、実際のふるまいに徴した場合、高性能の顕微鏡ででもなければ見分けられないであろうが。

 

インドネシア政府の犯罪行為を後押しする理由は、原子力潜水艦の深海航行ルートを確保・支配することなどもふくめ、石油や「安全保障上の国益」以外にもさまざまである。
インドネシアは1965年にスハルトが権力を掌握した時以来ずっと「称うべき同盟国」であった。
その権力奪取は「血しぶきの舞う惨劇」によってあがなわれたが、それは「西側諸国にとって久方ぶりのアジアからの朗報」(タイム誌)であった。この「共産主義者とその支持者に対する恐るべき大量殺戮」(彼らの大半は小作農民であった)は、「アジアにおける一条の光」(ニューヨーク・タイムズ紙)を提供するものであった。メディアにおける昂揚感はかぎりがなかった。最終的に勝利した「インドネシアの穏健派」(ニューヨーク・タイムズ紙)、および、「根は温和な」(エコノミスト誌)そのリーダーに対して、称賛の言葉が書き連ねられた。

 

この「称賛」に値する殺戮は、インドネシアの一般市民に根ざした唯一の政党を扼殺しただけではない。同国の豊かな資源を欧米の搾取の手に開放した。さらには、米国のベトナム戦争の正当化のために利用されさえした。ベトナムが「インドネシアの急激な共産化に対する盾を提供する」との理由で(これは、当時のフリーダム・ハウス(訳注: 米国に本拠を置く人権擁護団体)による率直で厳粛な表現である)。
このような利点の数々がすぐに忘れ去られるはずがない。

 

上記のオーストラリア大使、ウールコット氏は、「キッシンジャー流現実主義」を如実に示す事例をいくつか明かしてくれる。
同氏は、「インドネシア政府に対して、米国は目下、多少の影響力を発揮できるかもしれない」と外交的な抑制表現を用いつつ述べ、以下の事実を伝えた。
キッシンジャー氏が、駐インドネシア大使のデヴィッド・ニューサム氏に対して、ティモール問題を回避し、大使館報告を縮約して、「事態の自然ななりゆき」にまかすよう指示した、と。
また、ニューサム氏は、もしインドネシア政府が東ティモールに侵攻するならば、「手際よく、迅速に、かつ、米国製兵器を使用することなく」そうするのが米国の望みであるとウールコット氏に打ち明けている。ちなみに、米国製兵器は、インドネシア政府の兵器調達の約90パーセントを占める。

 

このような現実主義の教えは、当時、国連大使であったダニエル・パトリック・モイニハン氏の言葉にもうかがえる。同氏は、国際法と人権を雄々しく擁護したことで著名であるが。
「米国政府は事態がこのようになることを望んだ」と、その回顧録で同氏は述べている。「そして、それが実現すべく力をそそいだ。国連が推進するいかなる施策であれ、それが不首尾に終わることを国務省は願った。その任務は私に割り当てられた。そして、私はその過程で少なからぬ成功をおさめた」。
モイニハン氏は、侵攻の最初の数ヶ月で殺害された犠牲者数は6万人との推定値を引用している。これは「比率的に言えば、第二次世界大戦ソビエト連邦がこうむった犠牲者のレベルにほぼ匹敵する」と述べる。しかし、それは、その後すぐにひき続く、はるかに大きな成功の序章にすぎない。

 

欧米の各政権は、事後の知らないふりとは裏腹に、当初からずっと事態の真のなりゆきを十分承知していた。
リークされた内部文書で明らかになったことだが、キッシンジャー氏のもっとも恐れていたのは、侵攻における自分の関与が暴露され、目下の政敵や将来の政敵によって、それが「自分に対する攻撃材料として利用される」ことであった。
また、ケーブル通信の記録からは、以下の事実が浮き彫りになった。
スハルトにゴーサインが出された」後、インドネシア大使館と米国務省がとりわけ懸念したのは、アメリカのはたした役割を「国民と議会が知った時に、われわれが直面することになるであろうさまざまな厄介ごと」であった。
これらの言い回しは、当時ジャカルタ在のCIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏がピルジャー氏のインタビューに答えた際のものである。

 

米国の提供する兵器は、自国防衛の用途にきびしく制限されていた。が、それは、「キッシンジャー流現実主義」にとってなんら障害とはならなかった。内輪の議論において、この点が持ち出された時、キッシンジャー氏は冷笑的にこう反問した。
「で、インドネシアのただ中に共産主義政府をかかえることが自己防衛の問題と解釈できないだと?」。
慣習的な物差しにおいては、自主独立的な東ティモールは「共産主義」政権ということになるのである。そういう国は米国の指図に嬉々としてしたがうとはかぎらない。つまり、米国の「国益」の妨げとなるのだ。
かくして、内乱対策用装備をふくむ、あらたな兵器類がインドネシアに送られた。つまり、「大規模な戦争をするのに必要なあらゆる兵器類が、武器をいっさい持たない人々に向けられたのです」とリチティ氏は言う。先端的な軍事装備が決定的な役割をはたしました、と同氏は付言する。この点は、他の情報源によっても裏づけられている。
万一、異議申し立てがなされたとしても、ありあまる前例が引き合いに出されたことだろう。「偉大な魂はちっぽけなモラルなどほとんど意に介さない」。こう、2世紀ほど前に、米国の別の政治家は言い放っている(訳注: 米国第3代副大統領アーロン・バーの言葉とされる)。

 

1977年になると、インドネシアは兵器不足におちいっていた。それは、すなわち、侵攻の規模の大きさを証するものだ。カーター政権は兵器輸出を促進した。残虐行為が頂点に達した1978年には、英国も兵器輸出に加わった。一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した。他の国々の政府も同様に、このティモールの人々の大量殺戮と拷問から、最大限の利得を手に入れようとした。

 

メディアもこれに手を貸した。
米国における東ティモール関連の報道は、1974年と1975年がピークだった。「ポルトガル海上帝国」の崩壊をめぐる関心がその背景であった。スハルトの権力奪取時の「血しぶきの舞う惨劇」とは別の、あらたな「血しぶきの舞う惨劇」が展開するにつれ、報道は下火になっていった。その焦点は主に米国務省インドネシア軍将校の虚言と弁明に向けられていた。1978年に虐殺はジェノサイド(特定民族殲滅)の域に達したが、報道はまったく地をはらってしまった。
米国とならぶインドネシア政府の支持国であるカナダでも、事情は同じである。

 

ティモールの問題は1990年にいくらか光を浴びた。すなわち、その年にイラククウェートに侵攻したのである。それに対する欧米の反応はかなり異なっていた。インドネシアの方は、同じように原油にめぐまれた、隣接する小国に対しての、はるかに血なまぐさい侵攻・併合であったが。
そのちがいは影響力と利益の所在とはかかわりないということを説明するのに、とびきりの創意工夫の才が発揮された。ちがいは、ある種の、より微妙な、アングロサクソン系の美徳をそなえる性質のものに帰せられた。
これと類似のゆらぎは、この10年前にも見られたものだ。カンボジアティモールにおける同時期の残虐行為に対する極端に異なった反応を正当化しようする際にも、それは起こった。もっとも、たしかに大きな相違はあった。ティモールの場合は、その残虐行為をただちに止めることができたであろうという点で。

 

事情をストレートに語る人間も多少はいた。
オーストラリア外相のギャレス・エヴァンス氏は、1990年にこう述べている。
「世界はきわめて不公正な場だ。武力での奪取の例はめずらしくない」。そして、「武力による領土獲得を認めないという法的拘束力のある義務は存在しない」がゆえに、オーストラリアは、事態をそのまま受け入れて、ティモール原油を征服者と分けあうことになるかもしれない、と。
もっとも、この特赦的扱いは、クウェート原油をめぐるリビアイラクの取り決めに対しては、適用されることはまず考えられなかったであろう。
一方、オーストラリア首相のボブ・ホーク氏は次のように宣言していた。
イラククウェートの件について)、「大国が隣の小国に侵攻して、それでおとがめなしで済むなど許されることではない」。そして、「好戦的な国は隣接する小国に侵攻するのをためらうようになるだろう」、「国際関係においては、法の支配が力の支配に優越しなければならぬ」という戒めをきもに銘じたならば、と。
けれども、それは、「国益」がそう指示した場合にかぎっての話なのである。

 

ティモール問題は、1991年の11月にも、再度光があたった。先の暗殺事件にからむ墓地での追悼儀式をインドネシア国軍が強襲して、何百人かが死亡し、米国の記者2人も手ひどい暴行を受けたのだ(訳注: いわゆる「サンタクルス虐殺事件」)。
この戦略上の失敗は、例のごとく隠蔽工作の対象となった。欧米の指導者たちはそれに何の不満も抱かないようだった。石油探査業務はとどこおりなく進められた。暗殺事件後の半年のうちにオーストラリア、英国、日本、オランダ、米国などの企業との契約成立が報じられた。
「資本主義を奉じる統治者にとっては」と、ティモール人のある聖職者は書いている。「ティモールの人々の血と涙よりもティモールの蔵する石油の方がかんばしい香りがするのだ」。

 

インドネシア政府がなぜ「靴をぬぐこと」を検討したか、その主な理由は、ピルジャー氏の著書の東ティモールに関する章の最後の方で言及されている。
その理由は、「東ティモールの人々の持続的勇敢さであり、彼らは丘の斜面に十字架が次々と立とうとも、侵略者に抗し続けた」。これは、くり返し、「絶対的な権力の誤りやすさ、そして、他者の冷笑的諦観を想起させてくれるもの」だ。

 

けれども、彼らがどんなに勇敢であろうと、外部からの支援がなければ、希望を抱くことはむずかしい。どれほどの勇気と団結が存在しようと、インドネシア政府による入植、残虐行為、先住民固有の文化の破壊は、列強の資金拠出と支持を得ていれば、押しとどめることは容易ではない。

 

ペースは実に緩慢であったけれども、ティモールの人々の権利に対する支援は、米国でも無視できないレベルにようやく達した。真実がついに公共空間に浸透し始め、メディアはこの話題を取り上げざるを得なくなっており、「現実路線」への足かせは強まった。

 

上記1991年の大量殺戮が起こった周年日のボストン・グローブ紙には、次のような見出しが載った。
インドネシア将校、起訴を受け、ボストンを離脱」。
当該の将校は、事件の後、修学のためハーバード大学に送られていたが、ある女性の代理人によって訴訟を起こされ、罪を問われた。女性の息子は、事件の舞台である墓地で殺害された人々の一人であった。
(その後も、事件の犠牲者の身元が次々と明らかになった。これは、ピルジャー氏、そして、勇気あるインドネシアの学者、ジョージ・アディチョンドロ氏両人のおかげである。アディチョンドロ氏は、インドネシアの残虐行為の途方もない軌跡を裏づける、20年来の調査に基づいた報告書を発表した)

 

一般人の認識が深まり、擁護活動がさかんになった結果、米国お気に入りの大量虐殺者たちは、もはや米国を心地よい避難所とすることができなくなった。それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった。

 

米国議会はインドネシアに対する軍事援助と軍事訓練に制限をもうけるに至った。ホワイトハウスはいよいよ手の込んだやり方でこれを回避しなければならなくなった。とりわけ、ここ数ヶ月はそうである。
英国は、チャンス到来を察して、サッチャー政権の導きの下、戦争犯罪というきわめて旨みのある事業でトップを取ろうとたくみに動いた。
防衛調達担当大臣のアラン・クラーク氏はこう述べている。
兵器売却によって利潤が得られるのであれば、「ある外国人の一団が他の外国人の一団に何をしようが、私は大して心をわずらわせない」。
約60年前、英国の政治家ロイド・ジョージは、「土人どもを爆撃する権利は保持しなければならぬ」と洞察したが、われわれは今なおその権利を手放してはならぬというわけである。

 

ジョン・ピルジャー氏の近年の仕事-----たとえば、氏自身が現地取材した東ティモールに関する傑出したドキュメンタリーの『ある国家の死』等-----は、欧米の一般市民の意識を高め、自国の名前でどんな犯罪行為がなされているかをより深く認識させるよう働く。
その意義の大きさは、政府高官から逆上的な反応を引き出したことからも明らかである。現実世界をおおい隠す虚偽のベールを引っぱがしたことは、決してささやかな功績ではない。
とは言うものの、それが他の多くの場合と同様に無に帰さないためには、一般市民の反応が単なる意識の高まりにとどまらず、行動に結びついて、犯罪行為の恥ずべき共犯者たることに終止符が打たれなければならない。

 

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[その他の訳注・補足など]


訳文中の
「一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した」
について。
これは、具体的には、国連においてインドネシア政府に対する非難決議がなされないように働きかける、インドネシア政府に対する経済制裁措置などの成立をはばむ、などを意味するであろう。
この場合の「困惑」は外交的な婉曲表現である。

 


本文中には、CIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏の言葉が引用されているが、米国政府とCIAがスハルト政権による大量虐殺に関与していたことは、近年、外交文書の公開によって明らかになっている。

ウィキペディアの「スハルト」の項から一部を引用すると、

 

スハルト元大統領がスカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9月30日事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシア諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。(以下略)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/スハルト

 


今回の文章が浮き彫りにしているように、米国もしくは米国の同盟国がおこなう侵攻や残虐行為は、英米大手メディアで客観的、大々的に報じられることを期待できない。
一方、米国の敵対国、対立勢力が同じようなふるまいをした場合、モラルや人道の観点が声高に持ち出される。

クウェートに侵攻した際のイラクに対して、国内で人民を大量虐殺した共産主義ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)に対して、アフガニスタンに侵攻したソ連に対して、天安門事件をひき起こした中国に対して、等々。

 

大量虐殺と言えば、人々の脳裏にまず浮かぶのは、ヒトラーポル・ポト政権であって、インドネシアスハルト政権ではない。政府と大手メディアによるプロパガンダ、印象操作がみごとに奏功しているというほかない。

 

それらプロパガンダや印象操作の仕組み、様態、等々を詳細に分析したのが、チョムスキー氏とエドワード・ハーマン氏の共著『Manufacturing Consent』であった。

 

スハルト政権とポル・ポト政権の大量虐殺をめぐる米国政府と大手メディアの対照的な扱いについては、この『Manufacturing Consent』だけでなく、同じくハーマン氏との共著
『The Washington Connection and Third World Fascism(The Political Economy of Human Rights - Volume I)』、
と、その続編の
『After the Cataclysm - Postwar Indochina and The Reconstruction of Imperialist Ideology(The Political Economy of Human Rights - Volume II)』
においても、詳細に論じられている。
(ちなみに、この著作は、出版元の親会社からの圧力によって初版が販売停止になったといういわくつきの書である)

 


本文中の
「それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった」
について。

 

このエクトル・グラマホ将軍の裁判に関して、今、グーグルで検索してみると、大手メディアによる記事はまったく見当たらない。恐るべき報道抑制である。
米国当局の関与が浮き彫りになるから、というのがその理由であろう。これが、ロシアや中国が関与していた事件の裁判案件であったら、どうなっていたであろうか。
読者諸氏は、各自でその検索結果と報道抑制のありさまを確認していただきたい。

 


インドネシア政府の東ティモール侵攻を米国が支援したのは、資源掌握等の国益からであったが、それは、これより約30年後のイラク戦争においても主要動機の一つであった。

それについては、本ブログのコレクション・2[そりゃ帝国主義だ、ボケ!]の本文およびその「その他の訳注と補足など」の補足・2を参照。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・3

[ソビエト連邦社会主義]

 

原題は
The Soviet Union Versus Socialism


内容は、レーニントロツキースターリンを賛美するソビエト連邦その他と、アメリカを中心とする資本主義国の支配階層がともに「社会主義」という言葉を自分たちに都合のいいように利用した点を衝いたもの。
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である。

 

原文サイトは
https://chomsky.info/1986____/

 
初出は 『Our Generation』(我らの世代)というジャーナルの1986年春・夏号。
この『Our Generation』誌はアナキズムや libertarian socialism(自由主義社会主義)をテーマとする専門誌であるらしい。


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

 


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ソビエト連邦社会主義


ノーム・チョムスキー

初出: 『我らの世代』1986年 春・夏号


世界の2大プロパガンダ体制がある教義について合意した場合、その教義の縛りから脱するには、一方ならぬ知的努力が要求される。
ある教義とは、たとえば、次のようなものだ。
レーニントロツキーが創始し、スターリンとその後継者たちが整備した社会は、実質的な意味もしくは歴史的に正当な意味において、社会主義と関係がある」、と。
ところが、実際は、たとえ関係があるにしても、それは背反関係なのである。

 

上記の虚妄をこの2大プロパガンダ体制が説いて倦まないのはなぜか、それは苦もなく説明がつく。
ソビエト連邦は、その成立の時点からずっと、自国民および他の地域の虐げられた人々の活力を利用しようと努めてきた。それは、1917年のロシアの騒乱をテコにして国家権力を掌握した人間たちにとって、都合がよかった。
そのために用いられる観念上もっとも大きな武器は、次のように主張することであった。
ソビエトの指導者たちは、社会主義の理想に向けて、自国社会と世界を導いている」、と。
これはあり得ない話であり、いかなる社会主義者も-----まともなマルクス主義者ならばまちがいなく-----即座にあり得ないと考えるはずのことであった(実際に多くの社会主義者がそう考えた)。そしてまた、これはケタ外れの欺瞞であった。そのことは、ボルシェビキ体制のごく早い時期からすでに歴史が明らかにしている。
国家運営のボスたちは、社会主義の理想のオーラ、社会主義の理想にしかるべくともなう畏敬の念を利用することで正当性と支持を獲得しようと図った。こうして、社会主義のあらゆる側面を打ちこぼしながら、自分たちの常習的な現実のふるまいを隠蔽したのである。

 

一方、世界で2番目に大きなプロパガンダ体制にとっては、社会主義ソビエト連邦とその従属国に関連づけることは、イデオロギー上の武器としてすぐれて有用であった。人々に、国家資本主義体制への同調と服従を強いることができるからである。この体制下の組織や機構の所有者、運営者に一般人が「自分の身を賃貸しする」必要性をほとんど自然の法則のごとく信じ込ませることができるからである。それが「社会主義の牢獄」に対する唯一の代替策というわけであった。

 

かくして、ソビエト連邦の指導者たちは、自分自身を社会主義者と呼称することで、こん棒をふり回す権利を確保し、欧米の資本主義擁護派は、社会主義をひきあいに出すことによって、より自由で公正な社会の実現が押しとどめられることを期待した。
社会主義に対するこの両翼からの攻撃は、現代史において、社会主義の評判をおとしめるのにまことに効果的であった。

 

ここでまた注意を喚起しておきたいのは、既存の権力と特権に仕えるために国家資本主義の唱道者たちがたくみに採用するもう一つの手管である。
いわゆる「社会主義」国家をお決まりのように非難するにあたって、歪曲がふんだんに-----また、あからさまな嘘がたびたび-----用いられる。
自国と対立する側を糾弾し、犯罪行為の責任を彼らに帰することほど易しいことはない。非難の言葉を浴びせ続ける中で、証拠や理論等の裏付けの負担は、いっさい要求されないのである。

 

一方、欧米の暴力や残虐行為を批判する者は、大抵の場合、事実関係を明らかにしようと奮闘する。現実に起きた無残な犯罪行為や弾圧行為の事実を認めるとともに、欧米の暴力を手助けするために持ち出される言説の嘘を白日の下にさらす。ところが、予想されることではあるが、そういう場合、きまってこれらの対応は即座に「悪の帝国」とその子分たちを擁護するふるまいと見なされる。

かくして、大切な「お国のために嘘をつく権利」は生き長らえ、国家の暴力や残虐行為に対する批判は、矛先をにぶらされる。

 

また、もう一つ指摘しておいていいことは、紛争や混乱の時代において、レーニン主義の教義が近代の知識人にとって大きな魅力と映じる点である。
この教義は、「急進的知識人」に国家権力をにぎる権利、人々に対して「赤い官僚」、「新しい階級」の峻厳なルールを強いる権利、を付与する(これらの表現は、一世紀ほど前、バクーニンが先見的な考察をおこなった中で用いたものである)。
マルクスが批判した「ボナパルト国家」におけるのと同様に、彼らは「国家司祭」となる。鉄の手で統治する「市民社会の寄生的突起物」となる。

 

国家資本主義体制をおびやかす別の勢力がほとんど存在しない時代にあって、このレーニン主義体制への同じような本源的な取り組みは、「新しい階級」をして、国家の運営者の役割、この体制の唱道者の役割をはたすように導く。バクーニンの言葉を借りると、「人民を、『人民の棒』でなぐる」のである。
このような次第であるから、知識人にとって、「革命的マルクス主義」から「欧米賛美」へと転換するのが容易であるのは取り立てて不思議ではない。過去半世紀の間に悲劇から笑劇へと変じたシナリオを再演しただけの話である。結局のところ、変わったのは、権力の所在についての見きわめであるにすぎない。
レーニンは、「社会主義とは、全人民の利益に資することを企図した国家独占資本主義にほかならない」と述べた。その全人民は、もちろん、自分たちの指導者の慈悲深さを疑ってはならない。このレーニンの言葉は、「社会主義」が「『国家司祭』の要求するもの」へと変性したことを表している。そしてまた、これによって、彼らの姿勢の急激な転換を理解する手がかりが得られる。一見、まったく正反対に思えるが、実際はごく似かよったものだったのだ。

 

政治や社会をめぐる会話で使用される術語は、あいまいで不正確であり、あれこれの理念の唱道者の口出しによって絶えずその価値を減耗させられる。とは言え、それらの術語の本来の意味がまったく消え失せるわけではない。
社会主義という言葉は、その誕生の時以来ずっと、「働く人々の搾取からの解放」を意味していた。
マルクス主義の理論家、アントン・パネクーク氏はこう述べている。
社会主義の理想はブルジョワジーに取って代わったあらたな指導・統治階級によって達成されてはいないし、また、達成することもできない」。それができるのは「労働者自身が生産に関する主人となることによって」のみである、と。
生産者が生産を管理・掌握することこそが社会主義の要諦である。そして、これを達成する手段は、革命をめざす闘争のさなかにも、たゆまず工夫を試みられてきた。それは、従来の支配階層や「革新的知識人」から猛烈な反対を受けた。彼らは、変化する状況に応じながらも、レーニン主義や欧米の管理統制主義の一般的原則にしたがっていた。しかし、社会主義的理想の本質的な要素はゆるがない。すなわち、生産の手段を、自発的な意思で結びついた生産者の所有物とし、また、このようにして人々の社会的財産とすることである。人々は自分の主人による搾取から自身を解放する-----人間の自由のより広大な領域に向かう重要な一歩として。

 

レーニン主義の知識人たちは、これとは別の思わくを有していた。彼らは、「進行中の革命過程を先取りする『陰謀家』」というマルクスの言葉の通り、革命過程をおのれの覇権のためにゆがめたのである。「かくして、階級的利益に関して理論面で労働者をより啓発することに対する、彼らのきわめて侮蔑的な態度」が生じた。その「階級的な利益」には、「赤い官僚」の打倒、生産や社会生活に関する民主的な管理・掌握の仕組みの創造、等々が含まれているのであるが。レーニン主義者にとっては、一般大衆はきびしく律せられていなければならなかったのである。

一方、社会主義者は、規律が「余計なものとなる」社会秩序を創出することに力をそそぐであろう。規律が「余計なものとなる」のは、自発的な意思で結びついた生産者が「自主的に働く」(マルクス)からである。
自由主義社会主義」(訳注: 原語は libertarian socialism)においては、さらに進んで、その目標を、生産者による生産の民主的管理・掌握のみにとどめず、社会生活と個人生活の全局面における支配や序列の態様いっさいを駆逐しようとする。これは終わりのない闘争である。なぜなら、より公正な社会を実現しようと前進する中で、旧来の慣習や意識に潜んでいたかもしれないさまざまな抑圧形態があらたに看取、認識されるであろうから。

 

社会主義のもっとも中核的な特徴に対するレーニン主義者の敵意は、そもそもの出発点から明白であった。
革命期のロシアでは、ソビエト評議会や工場委員会が闘争と解放の手段として陸続と設立された。数多くの欠陥をかかえていたが、豊かな可能性も秘めていた。
レーニントロツキーは、しかし、権力をにぎるやいなや、ただちに解放の手段としてのこれらの可能性をつぶしにかかった。そして、党の-----実質上、その中央委員会と最高指導者の-----支配をゆるぎないものとしたのである。それはまさしくトロツキーが何年も前に思い描いていたことであった。それはまた、ローザ・ルクセンブルクその他のマルクス主義者が当初、警告したことであり、アナキストにとっては、つねに当然のなりゆきであった。
一般人民のみならず、党自身でさえも「上からの厳重な監督」にしたがわなければならない-----と、トロツキーは述べた。こうして彼は「革新的知識人」から「国家司祭」に変貌したのである。
国家権力を手中にする前は、ボルシェビキの指導者層は、下からの革命の闘争に従事する人々の使うレトリックの数々を拝借していた。が、彼らの真の眼目はまるっきり別のものであった。
このことは、1917年の10月に彼らが国家権力を掌握する前から明らかであったし、それ以後は、どうながめても紛れようがなかった。

 

ボルシェビキに好意的な歴史家のE・H・カー氏は次のように述べている。
「工場委員会を組織したり、工場の運営に口出ししたり、といった労働者の自発的性向は、当然のことながら革命によって助長された。国家の生産設備は自分自身の所有物であり、自分自身の裁量により、また、自分自身の利益になるように使用できる-----"革命のおかけで、彼らはこう信じるに至った"」。
("~"は私による強調)
また、あるアナキストの代表はこう発言している。
労働者にとって、「工場委員会は未来のための種子であった…… 今や、国家ではなく、工場委員会が采配をふるべきなのだ」。

 

しかし、「国家司祭」たちはいささか頭が切れた。ただちに工場委員会を殲滅し、ソビエト評議会を自分たちの支配のための道具と化さしめたのである。
11月3日に、レーニンは「労働者による管理運営に関する布告草案」の中で次のように書いている。
かかる管理運営をおこなうべく選出された者は、「厳格な秩序と規律の維持および資産の保護に関し、国に対して責任を負う」ものとする、と。
年の終わりには、レーニンは以下のように書きつけた。
「われわれは、『労働者による管理運営』から『最高国民経済会議』の創設へと移行した」。
この「最高国民経済会議」は「『労働者による管理運営』という仕組みを代替・吸収・上書きする」(E・H・カー)ことになる。
社会主義という概念は『労働者による管理運営』という考え方に結晶しているのに」と、メンシェビキの労働組合支持者の一人は嘆いた。
ボルシェビキの指導者らは、この嘆きを行動によって表現したのである-----社会主義の概念の核たる「労働者による管理運営」を破棄することによって。

 

ほどなくレーニンはこう宣言する。
指導者は、労働者に対して「独裁的な権力」を保持しなければならぬ。労働者は「単一の意思への絶対的服従」をうべなわなければならない。そして、「社会主義大義のために」、「労働過程における指導者たちの単一の意思に、いっさい疑問を差し挟まずしたがわなければならない」。

 

レーニントロツキーは労働の軍事化を進めた。社会を、自分らの単一の意思に服する労働部隊へと変容せしめたのである。
その過程で、レーニンは次のように述べている。
「権威を有する個人」への労働者の服従こそは、「ほかの何にもまして人的資源の最大活用を確実ならしめる仕組み」である、と。
これは、ロバート・マクナマラ氏の表明した考え方と同じである。(末尾の訳注1を参照)。すなわち、「重要な意思決定は……トップにまかせなければならない。……民主主義への真の脅威は過剰管理ではなく過小管理から生じる」。「人間を支配するのがもし理性でないとしたら、人間はその可能性をあまさず開花させることができない」。そして、経営とは、理性による支配にほかならない。理性による支配こそがわれわれに自由を保障するのだ、うんぬん。

 

そして、同時にまた、「派閥」-----すなわち、表現や集団の自由のささやかな表徴-----までもが「社会主義大義のために」放逐された。「社会主義」なる言葉は、レーニントロツキーの思わくによって定義を変えられたのである。この2人はファシスト体制の原型を創り上げた。そして、それは、スターリンによって、近代の数々の惨劇のうちの一つに成りおおせた(原注1)。

 

レーニン主義の知識人たちがかかえる社会主義への激しい敵意を理解できなかったこと(その根は明らかにマルクスにあるが)、そしてまた、レーニン主義体制を誤解したこと-----この2つは、より公正な社会と存続可能な世界を求める欧米の取り組みに対して、壊滅的な影響をもたらした。いや、それは、欧米にかぎられた話ではなかった。

社会主義の理想を救出する道を見出さなければならない。世界に大きな影響力をふるう2大勢力の中の敵手から救出する道、たえず「国家司祭」や社会の運営者になろうとし、解放という名目で自由を圧殺しようとする人々から救出する道を。

 
原注1: 社会主義に対する早い時期のレーニントロツキーによる破壊行為については、多くの論述がある中で、とりわけ、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)(末尾の訳注2を参照)、および、ピーター・ラクレフ氏の『ラディカル・アメリカ』誌への寄稿(1974年11月号)を参照。

 

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[その他の訳注・補足など]

■訳注1

 ロバート・マクナマラは米国の実業家、政治家。フォード社の社長を務めた後、ケネディ、ジョンソン政権下で国防長官、その後は世界銀行総裁。
ハーバード・ビジネス・レビュー誌の特集では、「ベトナム戦争を泥沼化させた張本人としてアメリカ人の記憶に残っている」が、国防長官就任以前はフォード社の経営などに携わり、科学的経営をおこなった「近代経営の体現者」と評されている。
いわば、資本主義体制を代表する人物である。

 

■訳注2

原注1で言及されている、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)は、以下の名前で邦訳が出ているもよう。

ロシア革命の幻想』(三一新書、尾関弘訳、1972年刊)

(原題の訳の「ボルシェビキと労働者管理」は、この邦訳では、小さく副題として表示されている)

 

■補足・1
前書きで、
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である」
と書いた。
チョムスキー氏が若い頃からこの種のプロパガンダに敏感であったことは、本ブログ1回目の「その他の訳注・補足など」の「補足・2」でふれた。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1
侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連
https://kimahon.hatenablog.com/entry/2018/04/14/164648

 

■補足・2
チョムスキー氏は現行の資本主義を「国家資本主義」と形容する。。
「市場原理に立脚した資本主義」というのは見せかけ、政府やメディアによるプロパガンダであって、実際は国家のはたす役割が大きいから「国家資本主義」という呼称が似つかわしいということであるらしい。
現在の資本主義体制においては、国家の役割が大きいというのは、チョムスキー氏の主要な主張の一つである。

この点について、本ブログが依拠するチョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ の中にもし適当なコラムがあれば、いずれ紹介するつもりである。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・2

 

[そりゃ帝国主義だ、ボケ!]

 

内容はイラク戦争の欺瞞について。
アメリカの帝国主義に対する批判でもある。
例によって、ここでも、チョムスキー氏のお得意のテーマ、「米国政府と大手メディアによるプロパガンダ」が衝かれている。


原文サイトは
https://chomsky.info/20050704/

 
原題は
It's Imperialism, Stupid
(そりゃ帝国主義だ、ボケ!)

 

この It's Imperialism, Stupid は、
It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)という有名な表現のもじり。くわしくは末尾の「その他の訳注・補足など」を参照。


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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そりゃ帝国主義だ、ボケ!


ノーム・チョムスキー

『カリージ・タイムズ』紙 2005年7月4日

 

ブッシュ大統領は、6月28日のスピーチにおいて、イラク侵攻は米国が現在もなお継続している「テロに対する世界規模の闘い」の一環として実施されたと主張した。
しかし、予想された通り、実際には侵攻の結果、テロの脅威は増大した-----おそらくは大幅に。

 

そもそもの最初から、イラク侵攻の目的に関する米国政府の発表は、半面の真実、誤情報、隠された意図、等々によって彩られていた。イラク侵攻に至る事情をめぐり最近明らかになった事実は、イラクをおおう混乱、そしてさらに中東から世界にまで脅威をおよぼしている混乱、と並置してみると、いよいよその対照のあざやかさが際立ってくる。

 

2002年に、アメリカとイギリスはイラク侵攻の正当性を高らかにかかげた。大量破壊兵器を開発しているというのがその言い分であった。それが「たった一つの問題点」である-----そう、ブッシュや英国首相ブレアおよびそのお仲間たちは、ことあるごとに強調した。そして、それはまた、ブッシュ大統領武力行使について議会承認を得るにあたっての、唯一の根拠でもあった。

 

その「たった一つの問題点」に対する答えは、侵攻後ほどなくして判明した。そして、しぶしぶ受け入れられた。すなわち、大量破壊兵器なるものは存在しなかったのである。
しかし、政府とメディアはいささかも動じなかった。間髪入れずに、イラク侵攻のあらたな名分と正当性が、そのプロパガンダ機構からひねり出された。

 

国家安全保障と諜報に関する専門家、ジョン・プラドス氏は、2004年に上梓した著作『欺かれて』において、関連する記録文書を慎重かつ広範に精査した後、以下のように結論づけている。
「米国人は、侵攻した側に自分自身を数え入れるを好まない。が、イラクで起こったことはあからさまな侵攻そのものだった」。

 

プラドス氏は、ブッシュ大統領の「イラク戦が必要かつ喫緊である旨を自国民と世界に納得させるための術策」を、「『政府の不実』に関する事例研究」としてあつかっている。「この術策のためには、「事実とかけ離れた公式声明や悪質な情報操作が必要であった」。
この虚偽の履歴をさらに汚したのは、英『サンデー・タイムズ』紙が5月1日に掲載した「ダウニング・ストリート・メモ」(訳注: 英首相官邸で開かれた秘密会議のメモ)、および、その他あらたに入手された数々の機密文書の公開である。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」は、ブレア首相の戦時内閣における2002年の7月23日の会合から生まれた。
その席で、英国秘密諜報部の長官、リチャード・ディアラブ氏は、今では悪名高くなった次のような発言をしたのである。
イラク侵攻を企図した「政策方針に沿うよう、情報と事実は調整をほどこされた」、と。

 

この「メモ」の中には、国防相ジェフ・フーン氏の以下の発言も記録されている。
「米国は、イラク政府への圧力を増すために、すでに軍事活動の『急拡大』に着手している」。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」をスクープしたマイケル・スミス記者は、その後の関連記事において、背景事情とその内容についてさらに詳細に報じている。
上の、「軍事活動の急拡大」の中には、明らかに英米共同の空爆作戦が含まれている。その意図は、イラクを挑発し、なんらかの行動-----「メモ」の表現にしたがえば「カーサス・ベリ」(訳注:ラテン語で、「開戦事由」の意)と見なせるような行動-----を誘い出すことであった。

 

戦闘機がイラク南部で空爆を開始したのは2002年の5月である。英国政府の発表によると、当該月の投下爆弾トン数は10トンであった。
異例の「急拡大」が始まったのは8月の下旬である(9月の投下爆弾トン数は54.6トン)。

 

スミス記者はこう書いている。
「別の言い方をすれば、ブッシュ大統領とブレア首相がイラク戦を開始したのは、誰もが信じているような2003年の3月ではなく、2002年の8月の終わりであった。また、議会がイラクに対する軍事行動に議会承認をあたえる6週間前のことであった」。

 

この空爆は、飛行禁止区域の連合国軍機を守るための防衛的措置と主張された。
イラクは国連にうったえる一方で、報復攻撃に出て米国のワナにはまる愚は犯さなかった。

 

米英の政策策定者にとっては、イラク侵攻は「テロに対する闘い」をはるかにしのぐ優先事項であった。
そのことは、当の米国の諜報機関自身が作成した報告書に明らかである。
連合軍による侵攻の直前、米諜報機関の一つで、戦略的思考を中核的に担う「国家情報会議」(NIC)は、極秘の報告書の中で次のように述べていた。
「米国が主導するイラク侵攻の結果、『政治的イスラム』(訳注: イスラム国家・イスラム社会の建設をめざす復興主義)への支持が拡大するとともに、イラク社会は深刻な分裂にみまわれ、国内で暴力的な紛争が生じやすくなろう」。
これは、昨年9月の『ニューヨーク・タイムズ』紙(記者はダグラス・ジールとデビッド・サンガー)が報じたものである。
2004年の12月には、NICは次のように警告している(ジール記者による上の記事の数週間後の続報)。
イラクその他の国々で今後発生しうる紛争のおかげで、あらたな世代のテロリストの誕生につながる、新兵勧誘の機会の増大、また、実戦訓練の場、技術的能力や言語コミュニケーション能力の鍛錬の場の拡大、等々が懸念される。彼らが『プロ化』し、政治的暴力それ自体が彼らにとって目的となる事態が起こり得る」。

 

もちろん、上級の政策策定者がテロ増大のリスクを犯すからといって、彼らがそのような結果を歓迎しているわけではない。ただ単に、他の政策目標と比較して、テロ抑止が優先事項のトップに上らないだけの話である。優先事項のトップに上る他の政策目標とは、たとえば、世界の主要なエネルギー資源を支配することである。

 

ズビグニュー・ブレジンスキー氏は、上級の政策策定者や分析家の中でとりわけ頭の切れる人間の一人であったが、イラク侵攻後まもなく、米『ナショナル・インタレスト』誌において、こう指摘している。
中東を制することは「欧州とアジアの国々に対する、間接的だが政治的にきわめて重要な影響力を持つことになる。彼らもまた同地域からのエネルギー輸出に依存しているからだ」。

 

米国がもしイラクを-----原油の確認埋蔵量が世界第2位であり、世界の主要原油供給国のひしめく地域のほぼ真ん中に位置するイラクを-----ずっと支配下に置くことができれば、米国の戦略的能力と影響力は、今後の「三極世界」における主要ライバルたちに対して、格段に高まるであろう。
「三極世界」とは、過去30年の間に徐々に形を整えてきた、米国を盟主とする「北米」、「欧州」、そして、南アジア・東南アジア諸国との結びつきを有する「北東アジア」の3つである。

 

上記の戦略的思考は合理的なものではある。人類の存続が、短期の影響力や富に比べ、ことさらに重要なものではないとすればの話であるが。それに、これは取り立てて斬新な考え方でもない。このテーマは歴史を通じてずっと鳴り響いてきた。核兵器の時代である今日が過去とちがうのは、賭け金が途方もなく高く積み上がっていることだけである。


CHOMSKY.INFO


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[その他の訳注・補足など]


タイトルの It's Imperialism, Stupid は、It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)という有名な表現のもじりである。
元の表現の It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)は、1992年の大統領選挙戦におけるクリントン陣営の合言葉で、国民の心をつかむのに有効なのは経済の話題であることをスタッフに周知徹底させるために使われた。
このセリフが有名になって以来、It's ~ , stupid のパターンは、パロディその他の形でメディアにしばしば登場する。

ウィキペディアの説明も参照↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/It%27s_the_economy,_stupid

 

なお、元の表現の It's the economy, stupid の It は文法的には「漠然と状況・事情をあらわす it」と解される(しいてこれを具体的に表現すれば、「この選挙戦を戦うにあたってキモになるのは~」ぐらい)。
一方、本タイトルの It’s Imperialism, Stupid の It は代名詞であって、本文中の話題である「イラク侵攻」を指す。

 

■補足・1
「ダウニング・ストリート・メモ」について。

今回のコラム訳出のために、念のためグーグルで「ダウニング・ストリート・メモ」を検索してみると、驚くべきことに、読売、朝日、毎日などの大手新聞その他、日本のいわゆる大手メディアのサイトは全然検索結果に現れない。
現れるのは大半が個人のブログである。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」を別称の「ダウニング街メモ」あるいは「英首相官邸メモ」、「英国政府官庁街メモ」などと変えても検索結果の傾向は変わらない。

 

これほどあからさまに情報が抑制されている(あるいは報道統制がおこなわれている?)とは思っていなかった。
それとも、これは、私個人だけに表示される独自の検索結果なのだろうか。
本ブログの閲覧者は、各自でそれぞれ、検索結果のありさまを確認していただきたい。

 

(また、英語版のウィキペディアには Downing Street memo の項目と説明があるが、日本語版のウィキペディアには「ダウニング・ストリート・メモ」は見当たらない。
さらには、日本語版ウィキペディアの「イラク戦争」の説明には「ダウニング・ストリート・メモ」についての言及がない。はっきり言って、それがないイラク戦争の説明などほとんど無価値、無意味である。あきれるしかない)

 

■補足・2
イラク戦争の動機は石油を支配することである」といきなり断定すれば、馬鹿げた陰謀論のように聞こえるが、「広い意味での石油の支配」、「石油を介しての影響力の確保」(言い換えれば、米国の覇権の維持のための一手段)がイラク戦争の主要動機の一つであることは、米国のエリート支配層にとって暗黙の了解事項であった。
そのことは、本文中のブレジンスキー氏の言のほかに、たとえば、米連邦準備制度理事会FRB)の議長であったアラン・グリーンスパン氏の回顧録の一節にもはっきりと示されている。

「悲しいことに、誰もが承知していること-----イラク戦争はおおむね石油をめぐる争いだということ-----を認めるのは政治上、具合が悪いのだ」
グリーンスパン氏の回顧録『The Age of Turbulence』(波乱の時代)(ペンギン出版、2007年刊、463ページ)より)

 

チョムスキー氏は早くから、中東の動乱の主因の一つが石油資源の掌握であることをさまざまな文章で指摘していた。
当初は、一般人の中で、それを陰謀論と見なして嘲笑する向きもあったようである。もちろん、政府関係者が公的に認めるはずがない。陰謀論として相手にしないのが良策である。
これにからんで、チョムスキー氏に対する悪質な誹謗中傷がおこなわれたであろう。