チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・9

 

[文明は資本主義を生き延びることができるか]


原題は
Can Civilization Survive Capitalism?
(文明は資本主義を生き延びることができるか)


今回の文章は、中心となるテーマは表題の通り、現行の資本主義(と民主制)への批判であるが、ほかにチョムスキー氏の長年の関心事であるテーマがいろいろ顔をのぞかせている。それについては、末尾の[その他の訳注・補足など]を参照。

 

7年前、すなわち、2013年に書かれた文章であるが、いぜん有効性をうしなっていない。言い換えれば、憂慮すべきことに、状況はそれからほとんど変わっていないということである。


原文サイトは
https://chomsky.info/20130305/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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Can Civilization Survive Capitalism?
文明は資本主義を生き延びることができるか


ノーム・チョムスキー

『オルターネット』誌 2013年3月5日

 

 

アメリカの経済体制にふれる場合、一般に「資本主義」なる言葉が用いられる。しかし、その体制には、創造的な革新に向けての助成金、「大きすぎてつぶせない」銀行に対する政府の保障措置、等々をふくむ、国家による相当の介入が組み込まれている。

 

かつ、この体制は高度に独占化が進んでいる。そのため、いわゆる「市場」の論理がいっそうの掣肘を加えられており、この傾向は落ち着く気配がない。ここ20年の間、上位200社の収益が全体に占める割合はいちじるしく高まった。これについては、ロバート・マクチェズニー教授の新著『デジタル・ディスコネクト』でふれられている。

 

今や「資本主義」なる言葉は、資本家が存在しない体制に言及する際にもふつうに用いられている。たとえば、スペインのバスク地方に拠点を置く、労働者所有のグループ組織『モンドラゴン協同組合企業』、あるいは、米国オハイオ州北部で増加しつつある労働者所有の事業体(保守派の支持もしばしば取り付けている)など、である。この2例は、ガー・アルペロヴィッツ教授のすぐれた著作の中で論じられている。

 

また、「資本主義」なる言葉を、ジョン・デューイの提唱した「産業民主制」(訳注1)に言及する際に使う人間さえ見受けられる。デューイは19世紀終わりから20世紀前半にかけて活躍したアメリカ有数の社会哲学者である。

(訳注1: 労働者の代表が会社経営に参加する体制)

 

デューイは、労働者が「産業にかかわる自身の運命の主人」であることを提唱した。また、すべての体制-----生産、取引、広報・宣伝、物流、通信などの各手段をふくめ-----が共同の管理・運営の下に置かれることを求めた。そうでなければ、政治は「大企業が社会に投げかけた影」にすぎぬものとなるであろう、とデューイは説いた。

 

デューイが指弾した寸足らずの民主制は、近年、見る影もない惨状を呈している。政府を牛耳っているのは、今や、所得水準のトップ層に属するごく少数の人間たちであり、「下々」の大多数は、実質的に選挙権がないにひとしい。要するに、現行の政治・経済体制は金権政治の一種であって、民主制からはなはだしく乖離している-----民主制というものが、一般国民の意思により政策が大きく左右される政治的システムであるとすれば。

 

ここ何年にもわたって、資本主義が民主制と両立し得るかどうかについて、真剣な議論がなされてきた。もし really existing capitalist democracy(訳注2)----以下、略して RECD と呼ぶことにしよう-----に話をかぎるとすれば、この問いに対する答えは判然としている。すなわち、まったく両立し得ない、と。

(訳注2: 「今現在、実際に運用されている資本主義・民主制」ぐらいの意。現行の資本主義・民主制)

 

文明は、この RECD 、そして、これにともなういちじるしく減退した民主制の下で存続できようとは思えない。民主制がきちんと機能しさえすれば、はたして話は変わるだろうか。

 

文明が直面するもっとも喫緊の問題、つまり、環境破壊の問題について取り上げてみよう。

RECD の下ではよくあることだが、政府の政策と世論の間には非常に大きな懸隔がある。この懸隔の性質については、アメリカ芸術科学アカデミーの機関誌である『ダイダロス』の最新号で、複数の論文が考察をくわえている。

 

研究者のケリー・シムズ・ギャラガー教授によると、「再生可能エネルギーに関し、なんらかの政策を実施している国は109に上り、目標を定めている国は118に達する。一方、アメリカは、国レベルで再生可能エネルギーの利用促進を図るいかなる着実で一貫性のある政策も採用していない」。

 

米国政府の方針を国際的な潮流から逸らせているのは、国民の意見ではない。とんでもない、米国民の意向は、政府の政策が示唆するものよりずっと世界標準に近いのである。そしてまた、起こり得る環境災害に対処するのに必要な措置を、より熱心に支持している。その起こり得る環境災害は、科学者たちが圧倒的な意見の一致で予測するものであるとともに、はるか未来の話でもない。まずまちがいなく、われわれの孫の世代の生活に影響をおよぼす。

 

上記『ダイダロス』において、ジョン・クロスニックとボゥ・マキニスの両氏はこう指摘している。
「発電時の温室効果ガスの排出量削減をめざす連邦政府の施策は、国民の大多数に支持されている。2006年では、86パーセントの回答者が電力会社に対する排出量削減の義務付け、または、減税措置によるその促進に賛意を示した。同様に、同年の87パーセントの回答者が、水力、風力、太陽光などによる発電を手がける企業に対する減税措置を支持した(これらの高い支持率は、2006年から2010年にかけて維持され、その後やや低下している)」。

 

一般国民が科学の声に耳をかたむけるという事実は、経済や国策を牛耳っている人間たちにとって、ひどく悩ましい問題である。

 

彼らの懸念をよく表している現今の例の一つは、ALEC(米国立法交流評議会)が州議会に提案した「環境リテラシー育成法」である。ALECは、企業の出資するロビー活動組織であり、企業部門とトップ富裕層のニーズに応える法を立案する。

 

この法は、幼稚園から高校3年生までの教室で、気候科学に関し「バランスのとれた教育」なるものを義務付ける。
この言い回しは、気候変動に否定的な見解を紹介することを指す婉曲語法であり、プログラムのねらいは、気候科学の主流的見解と「バランスをとる」(均衡をはかる・相殺する)ことである。これは、言わば、公立学校で「創造科学」(訳注3)を教えることを主唱する「創造科学者」が、それを「バランスのとれた教育」と呼ぶのと同断である。
この ALEC の提案を土台にした法案は、すでにいくつかの州で提出されている。

(訳注3: 聖書の天地創造を科学的に正しいとする説。この説を採る人を creationist(創造科学者)と呼ぶ)

 

むろん、こうした動きいっさいは、いわゆる「批判的思考」をはぐくむという美辞麗句で装われている。「批判的思考」をはぐくむのはもちろんけっこう。だが、われわれ人類の存続をおびやかす問題、企業収益の観点から重要であるがゆえに選ばれた問題などよりも、もっと群を抜いて適切な例を人はたやすく思いつけるはずである。

 

また、メディアの報道では、気候変動に関し、通常、2者間の論争が提示される。

 

一方の側には、圧倒的多数の科学者たち、世界各国の主だった科学学会、職業科学者の機関誌、IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)、等々が属している。

 

彼らの間では、意見の一致が見られる。すなわち、地球温暖化が進行している、それには人間の役割が相当のかかわりを持っている、そして、現在の状況は深刻で、むしろきわどいという形容が適切であり、近いうちに-----おそらくは20~30年以内に-----世界は重要な折り目を踏み越え、温暖化プロセスが急激に加速し、もはや押しとどめることが不可能となって、その結果、社会や経済は甚大な打撃をこうむる、というのだ。
複雑な科学上の問題で、このような意見の一致が見られるのはめったにないことである。

 

これと反対の側に陣取るのは、懐疑論者たちである。その中には、少数の、人から敬意を集めている科学者もふくまれており、そういう科学者は、まだ不明な点が多すぎると警告を発する。それは、つまり、事態は推測されているより悪くはないかもしれないということである。むろん、あるいは、もっと悪いかもしれない。

 

この2者間のもっともらしい論争からはぶかれているのは、懐疑論者の中のはるかに規模の大きいグループに属する人間たちである。彼らは高い敬意を払われている気候科学者で、IPCC の定期報告書をあまりに慎重すぎると考えている。そして、彼らは、われわれにとって不幸なことに、これまでいく度も結局正しいことが判明してきたのである。

 

政府や企業によるプロパガンダ作戦は、米国民の意見に多少の影響力を発揮したように思われる。米国民は世界標準よりも気候変動に懐疑的なのである。しかし、その程度は支配者層を満足させるにはなお至っていない。だからこそ、民間企業部門が米国の教育体制に攻撃をしかけているという仕儀になる。国民が科学的調査の結論に注意を払うという危険な風潮をなんとか抑え込もうというわけなのだ。

 

ルイジアナ州知事のボビー・ジンダル氏は、数週間前に開かれた共和党全国委員会の冬季会合において、党幹部に向けて次のように警鐘を鳴らした。
「われわれは愚かな党であることをやめねばならない …… 。われわれは米国民の知性を見くびるのをつつしまねばならない」、と。

 

RECD 体制の下では、国民が愚昧であることが飛びぬけて重要である。科学や合理性などといったものにまどわされてはならない。それもこれも、経済と政治の支配者層にとっての短期的利益のためである。後は野となれ山となれ。

 

これらの目標の追求は、RECD 下で説かれている原理主義的な市場原理の中に深く根をはっている。もっとも、この原理は、富と権力に仕える強大な体制を維持すべく、きわめて恣意的にしか守られないが。

 

米国政府の採用するこの原理は、おなじみの数々の「市場の非効率性」をかかえている。たとえば、市場取引において、他者への影響を考慮に入れないことなどである。これらの、いわゆる「外部性」がもたらす帰結はゆゆしいものであり得る。それは、目下の金融危機によくあらわれている。危機の一端は、大銀行や投資会社が「システミック・リスク」を顧慮しなかったことに帰せられる。つまり、リスクの高い取引を手がけた場合、システム全体が崩壊する可能性があるのだ。

 

環境破壊の問題となると、ことははるかに深刻である。今現在おろそかにされている「外部性」は人類の運命そのものなのだ。そして、この場合、救済を求めて駆け込める部署などはどこにも存在しない。

 

将来、歴史家は(仮に生き残っていればの話であるが)、この異様な事態の展開が、21世紀初頭に輪郭を明らかにしつつあったのをふり返ることになるだろう。
人類の歴史上初めて、人間はみずからの行為の結果として大災厄をまねく高い可能性に逢着した。自分たち自身の行為が、まっとうな生活を今後も維持できるという見通しをボロボロにしつつあるのだ。

 

これら将来の歴史家たちは気づくことになるだろう。歴史上もっとも裕福で強大な国家が、比類のない優位性を数々そなえながら、起こり得る災害を深刻化することに他を圧して力をそそいでいることに。
一方、自分の子・孫たちがまっとうな暮らしができる状況を維持しようとする努力を主導しているのは、いわゆる「原始的な」社会に属する人々-----「ファースト・ネーションズ」(訳注4)、部族民、土着の人々、先住民、等々と呼ばれる人々-----である。

(訳注4: イヌイットとメティスを除くカナダの先住民族の総称)

 

相当数の先住民を擁し、その影響力が無視できぬ国々は、地球環境の維持の努力の点で、他国を大きく引き離している。先住民を絶滅の危機に追いやっている、あるいはいちじるしく社会の片隅に追いやっている国々は、破滅に向かってまっしぐらである。

 

かくして、エクアドル-----先住民族が全人口中かなりの割合を占める-----は、その潤沢な石油資源をしかるべく地中に眠らせたままにしておけるよう、裕福な国々に支援を乞うているという展開とあいなる。

 

米国とカナダは、対照的に、いぜん化石燃料-----たとえば、カナダのきわめて危険性の高いタール・サンドもふくめて-----を燃やすことにご執心だ。そして、しかも、でき得るかぎり迅速に、余すところなくきれいさっぱり、そうしようとしている。一方で、両国政府は、(ほとんど無意味であるが)「エネルギー自立」の世紀の幕開けという驚異をほこらしげに喧伝している。この途方もない自己破壊への傾注を経て、世界がいかなる様相を呈するかについては一顧もあたえずに。

 

こうした状況は世界の各地で見られる。地球上の至るところで、先住民社会は、彼らが時に「自然の権利」と呼ぶものを守るために奮闘しており、一方で、いわゆる文明化され、文化的洗練をほこる社会は、これをバカバカしいと嘲笑している。

 

以上のいっさいは、合理性なるものが予見する状況とまさしく正反対である。もしその合理性が RECD のフィルターを通った末の、ゆがんだ合理性でないかぎり。


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[その他の訳注・補足など]

■補足・1
前書きでふれた、今回の文章にふくまれる「チョムスキー氏の長年の関心事であるテーマ」について。
それは、たとえば、(順不同で)、

 

1. 資本主義の定義のあいまいさ
チョムスキー氏は really existing capitalist democracy(「現行の資本主義・民主制」。略して RECDと呼ぶ)の欺瞞-----補助金制度、大銀行などに対する救済措置、大企業や富裕層には市場原理が働かない事例、等々-----についてたびたび言及し、それを批判している。
また、同様に、社会主義の定義についても、その定義のあいまいさを指摘している。これについては、本ブログのコレクション・3の[ソビエト連邦社会主義]を参照。

 

2. ジョン・デューイの「産業民主制」その他の考察への関心

 

3. 資本主義と民主制の対立

 

4. 現行の民主制への批判-----民意が反映されていないこと、など

 

5. 権力者層・支配者層にとって、国民が無知蒙昧であることが好都合であること

 

6. 政府や企業によるプロパガンダ

 

7. メディアの歪曲報道・偏向報道

 

8. 上記1の中の、とりわけ、資本主義のいわゆる「市場原理」の恣意的な適用

 

9. 先進国の傲慢と愚行

 

等々、である。

これらのうち、6と7のテーマについては、とりわけ、コレクション・1の[侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連]、および、コレクション・7の[「いわゆる国際社会」の犯罪]を参照。

 

■補足・2
原文に登場する creation science は、ご覧の通り、とりあえずウィキペディアなどにしたがい、「創造科学」とし、creationist は「創造科学者」としたが、日本語としては誤解をまねきやすい表現である。だからこそ、まだ定訳とはなっていないもようである。
それぞれ、たとえば、「聖書準拠理論」、「聖書準拠論者」などとした方がわかりやすい。