チョムスキー 時事コラム・コレクション

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。 本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

チョムスキー 時事コラム・コレクション・4

 

[ある島国が血を流したまま横たわる]

 

原題は
An Island Lies Bleeding


今回のコラムは、チョムスキー氏が東ティモールの問題にふれた文章のうちで、もっとも早いもの(1994年7月)。

 

インドネシアによる東ティモール侵攻を、米国を初めとする各国が資源掌握、兵器売却益、その他の思わくから支援した点を浮き彫りにしたものである。そして、大手メディアは、同盟国インドネシア不法行為、米国その他がそれを支援しているという事実、その真の思わく、等々を正面切って大々的に取り上げようとはしなかった。

 

今回の文章は、事実や情報の多くを著名なドキュメンタリー映画監督であるジョン・ピルジャー氏の著作に負っているが、東ティモール問題の実相が世人に認識される上で、チョムスキー氏がこれ以降執筆した数々の文章がはたした貢献は、無視することができない。


原文サイトは
https://chomsky.info/19940705/

 
(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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An Island Lies Bleeding
ある島国が血を流したまま横たわる


ノーム・チョムスキー

『ガーディアン』紙 1994年7月5日

 

この悲惨な20世紀に起こった犯罪のうちで、インドネシア政府による東ティモール侵攻は特筆すべきものである。
規模の点からだけではない(人口比で言えば、おそらくホロコースト以来、最多の犠牲者数を計上しているが)。その犯罪行為を抑止すること、望めばいつでもそれを止めることが容易であった点において際立っている。
ジャカルタ空爆するという脅し、いや、制裁措置を課するという脅しさえ、必要ない。大国がこのインドネシア政府による犯罪に積極的に関与することをつつしむだけで十分であったろう。すなわち、殺人と拷問の実行者に武器を手渡すことをやめる、そして、ティモール・ギャップの海底油田の分捕り合戦に参加するのをやめることである。

 

これらの事情については、「知らなかった」では済まされない。今年、ジョン・ピルジャー氏の著作『ディスタント・ボイス』が再刊された。この中で、東ティモールに関する力のこもった、啓発的な叙述が展開されている。

 

2年ほど前、インドネシア外務大臣アリー・アラタス氏は述べた。インドネシア政府は東ティモールに関して重大な選択をせまられている。東ティモールは「靴の中の、角立った小石のような」存在と化した、と。
インドネシアに関する著名な専門家であるベネディクト・アンダーソン氏は、この言を、方針見直しの数ある兆候のうちの一つと捉えた。「この重大な選択の具体的中身についてアラタス氏は語らなかったが、その示唆するところは、『靴をぬいで小石を取り除いた方がいい』ということです」。こう、同氏は評する。

 

「角立った小石」と化したのは、欧米列強の反対があったからではない。とんでもない。西側諸国および日本は、このポルトガルの旧植民地にインドネシアが侵攻し、それを自国領土に組み入れることに進んで協力したのである。
ピルジャー氏の著作は、以下の事実を伝えている。
1975年、インドネシアは、12月7日からのあからさまな侵攻に先立って、破壊工作とテロ活動を開始した。しかし、これよりずっと以前に、ジャカルタの英国大使館は次のように報告していた。
「当地の情勢を鑑みるに、インドネシア東ティモールをできるかぎり迅速かつ目立たずに併合することは、まちがいなく英国の国益に資する。かりに状況が手づまりとなり、国連で議論が紛糾した場合、われわれは面を伏せ、インドネシア政府に反対する側につかないようにするのがよかろう」。

 

オーストラリアもまた、この見方に与する。
ピルジャー氏の著作には、同様に、以下のような事実が明かされている。
1975年の8月、ジャカルタ駐在のオーストラリア大使、リチャード・ウールコット氏は、機密電信で次のように伝えていた。
近々開始される侵攻に関して、オーストラリアは「原理・原則に基づいた姿勢ではなく実利的な態度」で臨むべきだ。なぜなら、「そういうものこそが国益と外交の本義だからである」。
同氏はまた、お決まりの「オーストラリアの安全保障上の国益」に言及しつつ、こう述べる。
ティモール・ギャップをめぐる協定に関しては、ポルトガルあるいは同国から独立した東ティモールとよりも、インドネシア政府と交渉した方が、はるかに有利な取引ができるであろう」。
「ウィルソン的理想主義」よりも「キッシンジャー流現実主義」に依拠するよう同氏は勧める。もっとも、この両者のちがいは、実際のふるまいに徴した場合、高性能の顕微鏡ででもなければ見分けられないであろうが。

 

インドネシア政府の犯罪行為を後押しする理由は、原子力潜水艦の深海航行ルートを確保・支配することなどもふくめ、石油や「安全保障上の国益」以外にもさまざまである。
インドネシアは1965年にスハルトが権力を掌握した時以来ずっと「称うべき同盟国」であった。
その権力奪取は「血しぶきの舞う惨劇」によってあがなわれたが、それは「西側諸国にとって久方ぶりのアジアからの朗報」(タイム誌)であった。この「共産主義者とその支持者に対する恐るべき大量殺戮」(彼らの大半は小作農民であった)は、「アジアにおける一条の光」(ニューヨーク・タイムズ紙)を提供するものであった。メディアにおける昂揚感はかぎりがなかった。最終的に勝利した「インドネシアの穏健派」(ニューヨーク・タイムズ紙)、および、「根は温和な」(エコノミスト誌)そのリーダーに対して、称賛の言葉が書き連ねられた。

 

この「称賛」に値する殺戮は、インドネシアの一般市民に根ざした唯一の政党を扼殺しただけではない。同国の豊かな資源を欧米の搾取の手に開放した。さらには、米国のベトナム戦争の正当化のために利用されさえした。ベトナムが「インドネシアの急激な共産化に対する盾を提供する」との理由で(これは、当時のフリーダム・ハウス(訳注: 米国に本拠を置く人権擁護団体)による率直で厳粛な表現である)。
このような利点の数々がすぐに忘れ去られるはずがない。

 

上記のオーストラリア大使、ウールコット氏は、「キッシンジャー流現実主義」を如実に示す事例をいくつか明かしてくれる。
同氏は、「インドネシア政府に対して、米国は目下、多少の影響力を発揮できるかもしれない」と外交的な抑制表現を用いつつ述べ、以下の事実を伝えた。
キッシンジャー氏が、駐インドネシア大使のデヴィッド・ニューサム氏に対して、ティモール問題を回避し、大使館報告を縮約して、「事態の自然ななりゆき」にまかすよう指示した、と。
また、ニューサム氏は、もしインドネシア政府が東ティモールに侵攻するならば、「手際よく、迅速に、かつ、米国製兵器を使用することなく」そうするのが米国の望みであるとウールコット氏に打ち明けている。ちなみに、米国製兵器は、インドネシア政府の兵器調達の約90パーセントを占める。

 

このような現実主義の教えは、当時、国連大使であったダニエル・パトリック・モイニハン氏の言葉にもうかがえる。同氏は、国際法と人権を雄々しく擁護したことで著名であるが。
「米国政府は事態がこのようになることを望んだ」と、その回顧録で同氏は述べている。「そして、それが実現すべく力をそそいだ。国連が推進するいかなる施策であれ、それが不首尾に終わることを国務省は願った。その任務は私に割り当てられた。そして、私はその過程で少なからぬ成功をおさめた」。
モイニハン氏は、侵攻の最初の数ヶ月で殺害された犠牲者数は6万人との推定値を引用している。これは「比率的に言えば、第二次世界大戦ソビエト連邦がこうむった犠牲者のレベルにほぼ匹敵する」と述べる。しかし、それは、その後すぐにひき続く、はるかに大きな成功の序章にすぎない。

 

欧米の各政権は、事後の知らないふりとは裏腹に、当初からずっと事態の真のなりゆきを十分承知していた。
リークされた内部文書で明らかになったことだが、キッシンジャー氏のもっとも恐れていたのは、侵攻における自分の関与が暴露され、目下の政敵や将来の政敵によって、それが「自分に対する攻撃材料として利用される」ことであった。
また、ケーブル通信の記録からは、以下の事実が浮き彫りになった。
スハルトにゴーサインが出された」後、インドネシア大使館と米国務省がとりわけ懸念したのは、アメリカのはたした役割を「国民と議会が知った時に、われわれが直面することになるであろうさまざまな厄介ごと」であった。
これらの言い回しは、当時ジャカルタ在のCIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏がピルジャー氏のインタビューに答えた際のものである。

 

米国の提供する兵器は、自国防衛の用途にきびしく制限されていた。が、それは、「キッシンジャー流現実主義」にとってなんら障害とはならなかった。内輪の議論において、この点が持ち出された時、キッシンジャー氏は冷笑的にこう反問した。
「で、インドネシアのただ中に共産主義政府をかかえることが自己防衛の問題と解釈できないだと?」。
慣習的な物差しにおいては、自主独立的な東ティモールは「共産主義」政権ということになるのである。そういう国は米国の指図に嬉々としてしたがうとはかぎらない。つまり、米国の「国益」の妨げとなるのだ。
かくして、内乱対策用装備をふくむ、あらたな兵器類がインドネシアに送られた。つまり、「大規模な戦争をするのに必要なあらゆる兵器類が、武器をいっさい持たない人々に向けられたのです」とリチティ氏は言う。先端的な軍事装備が決定的な役割をはたしました、と同氏は付言する。この点は、他の情報源によっても裏づけられている。
万一、異議申し立てがなされたとしても、ありあまる前例が引き合いに出されたことだろう。「偉大な魂はちっぽけなモラルなどほとんど意に介さない」。こう、2世紀ほど前に、米国の別の政治家は言い放っている(訳注: 米国第3代副大統領アーロン・バーの言葉とされる)。

 

1977年になると、インドネシアは兵器不足におちいっていた。それは、すなわち、侵攻の規模の大きさを証するものだ。カーター政権は兵器輸出を促進した。残虐行為が頂点に達した1978年には、英国も兵器輸出に加わった。一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した。他の国々の政府も同様に、このティモールの人々の大量殺戮と拷問から、最大限の利得を手に入れようとした。

 

メディアもこれに手を貸した。
米国における東ティモール関連の報道は、1974年と1975年がピークだった。「ポルトガル海上帝国」の崩壊をめぐる関心がその背景であった。スハルトの権力奪取時の「血しぶきの舞う惨劇」とは別の、あらたな「血しぶきの舞う惨劇」が展開するにつれ、報道は下火になっていった。その焦点は主に米国務省インドネシア軍将校の虚言と弁明に向けられていた。1978年に虐殺はジェノサイド(特定民族殲滅)の域に達したが、報道はまったく地をはらってしまった。
米国とならぶインドネシア政府の支持国であるカナダでも、事情は同じである。

 

ティモールの問題は1990年にいくらか光を浴びた。すなわち、その年にイラククウェートに侵攻したのである。それに対する欧米の反応はかなり異なっていた。インドネシアの方は、同じように原油にめぐまれた、隣接する小国に対しての、はるかに血なまぐさい侵攻・併合であったが。
そのちがいは影響力と利益の所在とはかかわりないということを説明するのに、とびきりの創意工夫の才が発揮された。ちがいは、ある種の、より微妙な、アングロサクソン系の美徳をそなえる性質のものに帰せられた。
これと類似のゆらぎは、この10年前にも見られたものだ。カンボジアティモールにおける同時期の残虐行為に対する極端に異なった反応を正当化しようする際にも、それは起こった。もっとも、たしかに大きな相違はあった。ティモールの場合は、その残虐行為をただちに止めることができたであろうという点で。

 

事情をストレートに語る人間も多少はいた。
オーストラリア外相のギャレス・エヴァンス氏は、1990年にこう述べている。
「世界はきわめて不公正な場だ。武力での奪取の例はめずらしくない」。そして、「武力による領土獲得を認めないという法的拘束力のある義務は存在しない」がゆえに、オーストラリアは、事態をそのまま受け入れて、ティモール原油を征服者と分けあうことになるかもしれない、と。
もっとも、この特赦的扱いは、クウェート原油をめぐるリビアイラクの取り決めに対しては、適用されることはまず考えられなかったであろう。
一方、オーストラリア首相のボブ・ホーク氏は次のように宣言していた。
イラククウェートの件について)、「大国が隣の小国に侵攻して、それでおとがめなしで済むなど許されることではない」。そして、「好戦的な国は隣接する小国に侵攻するのをためらうようになるだろう」、「国際関係においては、法の支配が力の支配に優越しなければならぬ」という戒めをきもに銘じたならば、と。
けれども、それは、「国益」がそう指示した場合にかぎっての話なのである。

 

ティモール問題は、1991年の11月にも、再度光があたった。先の暗殺事件にからむ墓地での追悼儀式をインドネシア国軍が強襲して、何百人かが死亡し、米国の記者2人も手ひどい暴行を受けたのだ(訳注: いわゆる「サンタクルス虐殺事件」)。
この戦略上の失敗は、例のごとく隠蔽工作の対象となった。欧米の指導者たちはそれに何の不満も抱かないようだった。石油探査業務はとどこおりなく進められた。暗殺事件後の半年のうちにオーストラリア、英国、日本、オランダ、米国などの企業との契約成立が報じられた。
「資本主義を奉じる統治者にとっては」と、ティモール人のある聖職者は書いている。「ティモールの人々の血と涙よりもティモールの蔵する石油の方がかんばしい香りがするのだ」。

 

インドネシア政府がなぜ「靴をぬぐこと」を検討したか、その主な理由は、ピルジャー氏の著書の東ティモールに関する章の最後の方で言及されている。
その理由は、「東ティモールの人々の持続的勇敢さであり、彼らは丘の斜面に十字架が次々と立とうとも、侵略者に抗し続けた」。これは、くり返し、「絶対的な権力の誤りやすさ、そして、他者の冷笑的諦観を想起させてくれるもの」だ。

 

けれども、彼らがどんなに勇敢であろうと、外部からの支援がなければ、希望を抱くことはむずかしい。どれほどの勇気と団結が存在しようと、インドネシア政府による入植、残虐行為、先住民固有の文化の破壊は、列強の資金拠出と支持を得ていれば、押しとどめることは容易ではない。

 

ペースは実に緩慢であったけれども、ティモールの人々の権利に対する支援は、米国でも無視できないレベルにようやく達した。真実がついに公共空間に浸透し始め、メディアはこの話題を取り上げざるを得なくなっており、「現実路線」への足かせは強まった。

 

上記1991年の大量殺戮が起こった周年日のボストン・グローブ紙には、次のような見出しが載った。
インドネシア将校、起訴を受け、ボストンを離脱」。
当該の将校は、事件の後、修学のためハーバード大学に送られていたが、ある女性の代理人によって訴訟を起こされ、罪を問われた。女性の息子は、事件の舞台である墓地で殺害された人々の一人であった。
(その後も、事件の犠牲者の身元が次々と明らかになった。これは、ピルジャー氏、そして、勇気あるインドネシアの学者、ジョージ・アディチョンドロ氏両人のおかげである。アディチョンドロ氏は、インドネシアの残虐行為の途方もない軌跡を裏づける、20年来の調査に基づいた報告書を発表した)

 

一般人の認識が深まり、擁護活動がさかんになった結果、米国お気に入りの大量虐殺者たちは、もはや米国を心地よい避難所とすることができなくなった。それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった。

 

米国議会はインドネシアに対する軍事援助と軍事訓練に制限をもうけるに至った。ホワイトハウスはいよいよ手の込んだやり方でこれを回避しなければならなくなった。とりわけ、ここ数ヶ月はそうである。
英国は、チャンス到来を察して、サッチャー政権の導きの下、戦争犯罪というきわめて旨みのある事業でトップを取ろうとたくみに動いた。
防衛調達担当大臣のアラン・クラーク氏はこう述べている。
兵器売却によって利潤が得られるのであれば、「ある外国人の一団が他の外国人の一団に何をしようが、私は大して心をわずらわせない」。
約60年前、英国の政治家ロイド・ジョージは、「土人どもを爆撃する権利は保持しなければならぬ」と洞察したが、われわれは今なおその権利を手放してはならぬというわけである。

 

ジョン・ピルジャー氏の近年の仕事-----たとえば、氏自身が現地取材した東ティモールに関する傑出したドキュメンタリーの『ある国家の死』等-----は、欧米の一般市民の意識を高め、自国の名前でどんな犯罪行為がなされているかをより深く認識させるよう働く。
その意義の大きさは、政府高官から逆上的な反応を引き出したことからも明らかである。現実世界をおおい隠す虚偽のベールを引っぱがしたことは、決してささやかな功績ではない。
とは言うものの、それが他の多くの場合と同様に無に帰さないためには、一般市民の反応が単なる意識の高まりにとどまらず、行動に結びついて、犯罪行為の恥ずべき共犯者たることに終止符が打たれなければならない。

 

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[その他の訳注・補足など]


訳文中の
「一方、フランスもインドネシア政府への武器売却の意向を表明するとともに、同国政府の公的な場での「困惑」を阻止するかまえを示した」
について。
これは、具体的には、国連においてインドネシア政府に対する非難決議がなされないように働きかける、インドネシア政府に対する経済制裁措置などの成立をはばむ、などを意味するであろう。
この場合の「困惑」は外交的な婉曲表現である。

 


本文中には、CIA上級職員であったフィリップ・リチティ氏の言葉が引用されているが、米国政府とCIAがスハルト政権による大量虐殺に関与していたことは、近年、外交文書の公開によって明らかになっている。

ウィキペディアの「スハルト」の項から一部を引用すると、

 

スハルト元大統領がスカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9月30日事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシア諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。(以下略)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/スハルト

 


今回の文章が浮き彫りにしているように、米国もしくは米国の同盟国がおこなう侵攻や残虐行為は、英米大手メディアで客観的、大々的に報じられることを期待できない。
一方、米国の敵対国、対立勢力が同じようなふるまいをした場合、モラルや人道の観点が声高に持ち出される。

クウェートに侵攻した際のイラクに対して、国内で人民を大量虐殺した共産主義ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)に対して、アフガニスタンに侵攻したソ連に対して、天安門事件をひき起こした中国に対して、等々。

 

大量虐殺と言えば、人々の脳裏にまず浮かぶのは、ヒトラーポル・ポト政権であって、インドネシアスハルト政権ではない。政府と大手メディアによるプロパガンダ、印象操作がみごとに奏功しているというほかない。

 

それらプロパガンダや印象操作の仕組み、様態、等々を詳細に分析したのが、チョムスキー氏とエドワード・ハーマン氏の共著『Manufacturing Consent』であった。

 

スハルト政権とポル・ポト政権の大量虐殺をめぐる米国政府と大手メディアの対照的な扱いについては、この『Manufacturing Consent』だけでなく、同じくハーマン氏との共著
『The Washington Connection and Third World Fascism(The Political Economy of Human Rights - Volume I)』、
と、その続編の
『After the Cataclysm - Postwar Indochina and The Reconstruction of Imperialist Ideology(The Political Economy of Human Rights - Volume II)』
においても、詳細に論じられている。
(ちなみに、この著作は、出版元の親会社からの圧力によって初版が販売停止になったといういわくつきの書である)

 


本文中の
「それは、1年ほど前に、グアテマラの第一級の殺戮者の一人、エクトル・グラマホ将軍が似たような経緯で悟ったことでもあった」
について。

 

このエクトル・グラマホ将軍の裁判に関して、今、グーグルで検索してみると、大手メディアによる記事はまったく見当たらない。恐るべき報道抑制である。
米国当局の関与が浮き彫りになるから、というのがその理由であろう。これが、ロシアや中国が関与していた事件の裁判案件であったら、どうなっていたであろうか。
読者諸氏は、各自でその検索結果と報道抑制のありさまを確認していただきたい。

 


インドネシア政府の東ティモール侵攻を米国が支援したのは、資源掌握等の国益からであったが、それは、これより約30年後のイラク戦争においても主要動機の一つであった。

それについては、本ブログのコレクション・2[そりゃ帝国主義だ、ボケ!]の本文およびその「その他の訳注と補足など」の補足・2を参照。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・3

[ソビエト連邦社会主義]

 

原題は
The Soviet Union Versus Socialism


内容は、レーニントロツキースターリンを賛美するソビエト連邦その他と、アメリカを中心とする資本主義国の支配階層がともに「社会主義」という言葉を自分たちに都合のいいように利用した点を衝いたもの。
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である。

 

原文サイトは
https://chomsky.info/1986____/

 
初出は 『Our Generation』(我らの世代)というジャーナルの1986年春・夏号。
この『Our Generation』誌はアナキズムや libertarian socialism(自由主義社会主義)をテーマとする専門誌であるらしい。


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

 


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ソビエト連邦社会主義


ノーム・チョムスキー

初出: 『我らの世代』1986年 春・夏号


世界の2大プロパガンダ体制がある教義について合意した場合、その教義の縛りから脱するには、一方ならぬ知的努力が要求される。
ある教義とは、たとえば、次のようなものだ。
レーニントロツキーが創始し、スターリンとその後継者たちが整備した社会は、実質的な意味もしくは歴史的に正当な意味において、社会主義と関係がある」、と。
ところが、実際は、たとえ関係があるにしても、それは背反関係なのである。

 

上記の虚妄をこの2大プロパガンダ体制が説いて倦まないのはなぜか、それは苦もなく説明がつく。
ソビエト連邦は、その成立の時点からずっと、自国民および他の地域の虐げられた人々の活力を利用しようと努めてきた。それは、1917年のロシアの騒乱をテコにして国家権力を掌握した人間たちにとって、都合がよかった。
そのために用いられる観念上もっとも大きな武器は、次のように主張することであった。
ソビエトの指導者たちは、社会主義の理想に向けて、自国社会と世界を導いている」、と。
これはあり得ない話であり、いかなる社会主義者も-----まともなマルクス主義者ならばまちがいなく-----即座にあり得ないと考えるはずのことであった(実際に多くの社会主義者がそう考えた)。そしてまた、これはケタ外れの欺瞞であった。そのことは、ボルシェビキ体制のごく早い時期からすでに歴史が明らかにしている。
国家運営のボスたちは、社会主義の理想のオーラ、社会主義の理想にしかるべくともなう畏敬の念を利用することで正当性と支持を獲得しようと図った。こうして、社会主義のあらゆる側面を打ちこぼしながら、自分たちの常習的な現実のふるまいを隠蔽したのである。

 

一方、世界で2番目に大きなプロパガンダ体制にとっては、社会主義ソビエト連邦とその従属国に関連づけることは、イデオロギー上の武器としてすぐれて有用であった。人々に、国家資本主義体制への同調と服従を強いることができるからである。この体制下の組織や機構の所有者、運営者に一般人が「自分の身を賃貸しする」必要性をほとんど自然の法則のごとく信じ込ませることができるからである。それが「社会主義の牢獄」に対する唯一の代替策というわけであった。

 

かくして、ソビエト連邦の指導者たちは、自分自身を社会主義者と呼称することで、こん棒をふり回す権利を確保し、欧米の資本主義擁護派は、社会主義をひきあいに出すことによって、より自由で公正な社会の実現が押しとどめられることを期待した。
社会主義に対するこの両翼からの攻撃は、現代史において、社会主義の評判をおとしめるのにまことに効果的であった。

 

ここでまた注意を喚起しておきたいのは、既存の権力と特権に仕えるために国家資本主義の唱道者たちがたくみに採用するもう一つの手管である。
いわゆる「社会主義」国家をお決まりのように非難するにあたって、歪曲がふんだんに-----また、あからさまな嘘がたびたび-----用いられる。
自国と対立する側を糾弾し、犯罪行為の責任を彼らに帰することほど易しいことはない。非難の言葉を浴びせ続ける中で、証拠や理論等の裏付けの負担は、いっさい要求されないのである。

 

一方、欧米の暴力や残虐行為を批判する者は、大抵の場合、事実関係を明らかにしようと奮闘する。現実に起きた無残な犯罪行為や弾圧行為の事実を認めるとともに、欧米の暴力を手助けするために持ち出される言説の嘘を白日の下にさらす。ところが、予想されることではあるが、そういう場合、きまってこれらの対応は即座に「悪の帝国」とその子分たちを擁護するふるまいと見なされる。

かくして、大切な「お国のために嘘をつく権利」は生き長らえ、国家の暴力や残虐行為に対する批判は、矛先をにぶらされる。

 

また、もう一つ指摘しておいていいことは、紛争や混乱の時代において、レーニン主義の教義が近代の知識人にとって大きな魅力と映じる点である。
この教義は、「急進的知識人」に国家権力をにぎる権利、人々に対して「赤い官僚」、「新しい階級」の峻厳なルールを強いる権利、を付与する(これらの表現は、一世紀ほど前、バクーニンが先見的な考察をおこなった中で用いたものである)。
マルクスが批判した「ボナパルト国家」におけるのと同様に、彼らは「国家司祭」となる。鉄の手で統治する「市民社会の寄生的突起物」となる。

 

国家資本主義体制をおびやかす別の勢力がほとんど存在しない時代にあって、このレーニン主義体制への同じような本源的な取り組みは、「新しい階級」をして、国家の運営者の役割、この体制の唱道者の役割をはたすように導く。バクーニンの言葉を借りると、「人民を、『人民の棒』でなぐる」のである。
このような次第であるから、知識人にとって、「革命的マルクス主義」から「欧米賛美」へと転換するのが容易であるのは取り立てて不思議ではない。過去半世紀の間に悲劇から笑劇へと変じたシナリオを再演しただけの話である。結局のところ、変わったのは、権力の所在についての見きわめであるにすぎない。
レーニンは、「社会主義とは、全人民の利益に資することを企図した国家独占資本主義にほかならない」と述べた。その全人民は、もちろん、自分たちの指導者の慈悲深さを疑ってはならない。このレーニンの言葉は、「社会主義」が「『国家司祭』の要求するもの」へと変性したことを表している。そしてまた、これによって、彼らの姿勢の急激な転換を理解する手がかりが得られる。一見、まったく正反対に思えるが、実際はごく似かよったものだったのだ。

 

政治や社会をめぐる会話で使用される術語は、あいまいで不正確であり、あれこれの理念の唱道者の口出しによって絶えずその価値を減耗させられる。とは言え、それらの術語の本来の意味がまったく消え失せるわけではない。
社会主義という言葉は、その誕生の時以来ずっと、「働く人々の搾取からの解放」を意味していた。
マルクス主義の理論家、アントン・パネクーク氏はこう述べている。
社会主義の理想はブルジョワジーに取って代わったあらたな指導・統治階級によって達成されてはいないし、また、達成することもできない」。それができるのは「労働者自身が生産に関する主人となることによって」のみである、と。
生産者が生産を管理・掌握することこそが社会主義の要諦である。そして、これを達成する手段は、革命をめざす闘争のさなかにも、たゆまず工夫を試みられてきた。それは、従来の支配階層や「革新的知識人」から猛烈な反対を受けた。彼らは、変化する状況に応じながらも、レーニン主義や欧米の管理統制主義の一般的原則にしたがっていた。しかし、社会主義的理想の本質的な要素はゆるがない。すなわち、生産の手段を、自発的な意思で結びついた生産者の所有物とし、また、このようにして人々の社会的財産とすることである。人々は自分の主人による搾取から自身を解放する-----人間の自由のより広大な領域に向かう重要な一歩として。

 

レーニン主義の知識人たちは、これとは別の思わくを有していた。彼らは、「進行中の革命過程を先取りする『陰謀家』」というマルクスの言葉の通り、革命過程をおのれの覇権のためにゆがめたのである。「かくして、階級的利益に関して理論面で労働者をより啓発することに対する、彼らのきわめて侮蔑的な態度」が生じた。その「階級的な利益」には、「赤い官僚」の打倒、生産や社会生活に関する民主的な管理・掌握の仕組みの創造、等々が含まれているのであるが。レーニン主義者にとっては、一般大衆はきびしく律せられていなければならなかったのである。

一方、社会主義者は、規律が「余計なものとなる」社会秩序を創出することに力をそそぐであろう。規律が「余計なものとなる」のは、自発的な意思で結びついた生産者が「自主的に働く」(マルクス)からである。
自由主義社会主義」(訳注: 原語は libertarian socialism)においては、さらに進んで、その目標を、生産者による生産の民主的管理・掌握のみにとどめず、社会生活と個人生活の全局面における支配や序列の態様いっさいを駆逐しようとする。これは終わりのない闘争である。なぜなら、より公正な社会を実現しようと前進する中で、旧来の慣習や意識に潜んでいたかもしれないさまざまな抑圧形態があらたに看取、認識されるであろうから。

 

社会主義のもっとも中核的な特徴に対するレーニン主義者の敵意は、そもそもの出発点から明白であった。
革命期のロシアでは、ソビエト評議会や工場委員会が闘争と解放の手段として陸続と設立された。数多くの欠陥をかかえていたが、豊かな可能性も秘めていた。
レーニントロツキーは、しかし、権力をにぎるやいなや、ただちに解放の手段としてのこれらの可能性をつぶしにかかった。そして、党の-----実質上、その中央委員会と最高指導者の-----支配をゆるぎないものとしたのである。それはまさしくトロツキーが何年も前に思い描いていたことであった。それはまた、ローザ・ルクセンブルクその他のマルクス主義者が当初、警告したことであり、アナキストにとっては、つねに当然のなりゆきであった。
一般人民のみならず、党自身でさえも「上からの厳重な監督」にしたがわなければならない-----と、トロツキーは述べた。こうして彼は「革新的知識人」から「国家司祭」に変貌したのである。
国家権力を手中にする前は、ボルシェビキの指導者層は、下からの革命の闘争に従事する人々の使うレトリックの数々を拝借していた。が、彼らの真の眼目はまるっきり別のものであった。
このことは、1917年の10月に彼らが国家権力を掌握する前から明らかであったし、それ以後は、どうながめても紛れようがなかった。

 

ボルシェビキに好意的な歴史家のE・H・カー氏は次のように述べている。
「工場委員会を組織したり、工場の運営に口出ししたり、といった労働者の自発的性向は、当然のことながら革命によって助長された。国家の生産設備は自分自身の所有物であり、自分自身の裁量により、また、自分自身の利益になるように使用できる-----"革命のおかけで、彼らはこう信じるに至った"」。
("~"は私による強調)
また、あるアナキストの代表はこう発言している。
労働者にとって、「工場委員会は未来のための種子であった…… 今や、国家ではなく、工場委員会が采配をふるべきなのだ」。

 

しかし、「国家司祭」たちはいささか頭が切れた。ただちに工場委員会を殲滅し、ソビエト評議会を自分たちの支配のための道具と化さしめたのである。
11月3日に、レーニンは「労働者による管理運営に関する布告草案」の中で次のように書いている。
かかる管理運営をおこなうべく選出された者は、「厳格な秩序と規律の維持および資産の保護に関し、国に対して責任を負う」ものとする、と。
年の終わりには、レーニンは以下のように書きつけた。
「われわれは、『労働者による管理運営』から『最高国民経済会議』の創設へと移行した」。
この「最高国民経済会議」は「『労働者による管理運営』という仕組みを代替・吸収・上書きする」(E・H・カー)ことになる。
社会主義という概念は『労働者による管理運営』という考え方に結晶しているのに」と、メンシェビキの労働組合支持者の一人は嘆いた。
ボルシェビキの指導者らは、この嘆きを行動によって表現したのである-----社会主義の概念の核たる「労働者による管理運営」を破棄することによって。

 

ほどなくレーニンはこう宣言する。
指導者は、労働者に対して「独裁的な権力」を保持しなければならぬ。労働者は「単一の意思への絶対的服従」をうべなわなければならない。そして、「社会主義大義のために」、「労働過程における指導者たちの単一の意思に、いっさい疑問を差し挟まずしたがわなければならない」。

 

レーニントロツキーは労働の軍事化を進めた。社会を、自分らの単一の意思に服する労働部隊へと変容せしめたのである。
その過程で、レーニンは次のように述べている。
「権威を有する個人」への労働者の服従こそは、「ほかの何にもまして人的資源の最大活用を確実ならしめる仕組み」である、と。
これは、ロバート・マクナマラ氏の表明した考え方と同じである。(末尾の訳注1を参照)。すなわち、「重要な意思決定は……トップにまかせなければならない。……民主主義への真の脅威は過剰管理ではなく過小管理から生じる」。「人間を支配するのがもし理性でないとしたら、人間はその可能性をあまさず開花させることができない」。そして、経営とは、理性による支配にほかならない。理性による支配こそがわれわれに自由を保障するのだ、うんぬん。

 

そして、同時にまた、「派閥」-----すなわち、表現や集団の自由のささやかな表徴-----までもが「社会主義大義のために」放逐された。「社会主義」なる言葉は、レーニントロツキーの思わくによって定義を変えられたのである。この2人はファシスト体制の原型を創り上げた。そして、それは、スターリンによって、近代の数々の惨劇のうちの一つに成りおおせた(原注1)。

 

レーニン主義の知識人たちがかかえる社会主義への激しい敵意を理解できなかったこと(その根は明らかにマルクスにあるが)、そしてまた、レーニン主義体制を誤解したこと-----この2つは、より公正な社会と存続可能な世界を求める欧米の取り組みに対して、壊滅的な影響をもたらした。いや、それは、欧米にかぎられた話ではなかった。

社会主義の理想を救出する道を見出さなければならない。世界に大きな影響力をふるう2大勢力の中の敵手から救出する道、たえず「国家司祭」や社会の運営者になろうとし、解放という名目で自由を圧殺しようとする人々から救出する道を。

 
原注1: 社会主義に対する早い時期のレーニントロツキーによる破壊行為については、多くの論述がある中で、とりわけ、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)(末尾の訳注2を参照)、および、ピーター・ラクレフ氏の『ラディカル・アメリカ』誌への寄稿(1974年11月号)を参照。

 

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[その他の訳注・補足など]

■訳注1

 ロバート・マクナマラは米国の実業家、政治家。フォード社の社長を務めた後、ケネディ、ジョンソン政権下で国防長官、その後は世界銀行総裁。
ハーバード・ビジネス・レビュー誌の特集では、「ベトナム戦争を泥沼化させた張本人としてアメリカ人の記憶に残っている」が、国防長官就任以前はフォード社の経営などに携わり、科学的経営をおこなった「近代経営の体現者」と評されている。
いわば、資本主義体制を代表する人物である。

 

■訳注2

原注1で言及されている、モーリス・ブリントン著『ボルシェビキと労働者管理』(ブラック・ローズ・ブックス社、1978年刊)は、以下の名前で邦訳が出ているもよう。

ロシア革命の幻想』(三一新書、尾関弘訳、1972年刊)

(原題の訳の「ボルシェビキと労働者管理」は、この邦訳では、小さく副題として表示されている)

 

■補足・1
前書きで、
チョムスキー氏は、ここでも、政府や大手メディア、知識人たちによるプロパガンダに敏感である」
と書いた。
チョムスキー氏が若い頃からこの種のプロパガンダに敏感であったことは、本ブログ1回目の「その他の訳注・補足など」の「補足・2」でふれた。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1
侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連
https://kimahon.hatenablog.com/entry/2018/04/14/164648

 

■補足・2
チョムスキー氏は現行の資本主義を「国家資本主義」と形容する。。
「市場原理に立脚した資本主義」というのは見せかけ、政府やメディアによるプロパガンダであって、実際は国家のはたす役割が大きいから「国家資本主義」という呼称が似つかわしいということであるらしい。
現在の資本主義体制においては、国家の役割が大きいというのは、チョムスキー氏の主要な主張の一つである。

この点について、本ブログが依拠するチョムスキー氏のウェブサイト https://chomsky.info/ の中にもし適当なコラムがあれば、いずれ紹介するつもりである。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・2

 

[そりゃ帝国主義だ、ボケ!]

 

内容はイラク戦争の欺瞞について。
アメリカの帝国主義に対する批判でもある。
例によって、ここでも、チョムスキー氏のお得意のテーマ、「米国政府と大手メディアによるプロパガンダ」が衝かれている。


原文サイトは
https://chomsky.info/20050704/

 
原題は
It's Imperialism, Stupid
(そりゃ帝国主義だ、ボケ!)

 

この It's Imperialism, Stupid は、
It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)という有名な表現のもじり。くわしくは末尾の「その他の訳注・補足など」を参照。


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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そりゃ帝国主義だ、ボケ!


ノーム・チョムスキー

『カリージ・タイムズ』紙 2005年7月4日

 

ブッシュ大統領は、6月28日のスピーチにおいて、イラク侵攻は米国が現在もなお継続している「テロに対する世界規模の闘い」の一環として実施されたと主張した。
しかし、予想された通り、実際には侵攻の結果、テロの脅威は増大した-----おそらくは大幅に。

 

そもそもの最初から、イラク侵攻の目的に関する米国政府の発表は、半面の真実、誤情報、隠された意図、等々によって彩られていた。イラク侵攻に至る事情をめぐり最近明らかになった事実は、イラクをおおう混乱、そしてさらに中東から世界にまで脅威をおよぼしている混乱、と並置してみると、いよいよその対照のあざやかさが際立ってくる。

 

2002年に、アメリカとイギリスはイラク侵攻の正当性を高らかにかかげた。大量破壊兵器を開発しているというのがその言い分であった。それが「たった一つの問題点」である-----そう、ブッシュや英国首相ブレアおよびそのお仲間たちは、ことあるごとに強調した。そして、それはまた、ブッシュ大統領武力行使について議会承認を得るにあたっての、唯一の根拠でもあった。

 

その「たった一つの問題点」に対する答えは、侵攻後ほどなくして判明した。そして、しぶしぶ受け入れられた。すなわち、大量破壊兵器なるものは存在しなかったのである。
しかし、政府とメディアはいささかも動じなかった。間髪入れずに、イラク侵攻のあらたな名分と正当性が、そのプロパガンダ機構からひねり出された。

 

国家安全保障と諜報に関する専門家、ジョン・プラドス氏は、2004年に上梓した著作『欺かれて』において、関連する記録文書を慎重かつ広範に精査した後、以下のように結論づけている。
「米国人は、侵攻した側に自分自身を数え入れるを好まない。が、イラクで起こったことはあからさまな侵攻そのものだった」。

 

プラドス氏は、ブッシュ大統領の「イラク戦が必要かつ喫緊である旨を自国民と世界に納得させるための術策」を、「『政府の不実』に関する事例研究」としてあつかっている。「この術策のためには、「事実とかけ離れた公式声明や悪質な情報操作が必要であった」。
この虚偽の履歴をさらに汚したのは、英『サンデー・タイムズ』紙が5月1日に掲載した「ダウニング・ストリート・メモ」(訳注: 英首相官邸で開かれた秘密会議のメモ)、および、その他あらたに入手された数々の機密文書の公開である。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」は、ブレア首相の戦時内閣における2002年の7月23日の会合から生まれた。
その席で、英国秘密諜報部の長官、リチャード・ディアラブ氏は、今では悪名高くなった次のような発言をしたのである。
イラク侵攻を企図した「政策方針に沿うよう、情報と事実は調整をほどこされた」、と。

 

この「メモ」の中には、国防相ジェフ・フーン氏の以下の発言も記録されている。
「米国は、イラク政府への圧力を増すために、すでに軍事活動の『急拡大』に着手している」。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」をスクープしたマイケル・スミス記者は、その後の関連記事において、背景事情とその内容についてさらに詳細に報じている。
上の、「軍事活動の急拡大」の中には、明らかに英米共同の空爆作戦が含まれている。その意図は、イラクを挑発し、なんらかの行動-----「メモ」の表現にしたがえば「カーサス・ベリ」(訳注:ラテン語で、「開戦事由」の意)と見なせるような行動-----を誘い出すことであった。

 

戦闘機がイラク南部で空爆を開始したのは2002年の5月である。英国政府の発表によると、当該月の投下爆弾トン数は10トンであった。
異例の「急拡大」が始まったのは8月の下旬である(9月の投下爆弾トン数は54.6トン)。

 

スミス記者はこう書いている。
「別の言い方をすれば、ブッシュ大統領とブレア首相がイラク戦を開始したのは、誰もが信じているような2003年の3月ではなく、2002年の8月の終わりであった。また、議会がイラクに対する軍事行動に議会承認をあたえる6週間前のことであった」。

 

この空爆は、飛行禁止区域の連合国軍機を守るための防衛的措置と主張された。
イラクは国連にうったえる一方で、報復攻撃に出て米国のワナにはまる愚は犯さなかった。

 

米英の政策策定者にとっては、イラク侵攻は「テロに対する闘い」をはるかにしのぐ優先事項であった。
そのことは、当の米国の諜報機関自身が作成した報告書に明らかである。
連合軍による侵攻の直前、米諜報機関の一つで、戦略的思考を中核的に担う「国家情報会議」(NIC)は、極秘の報告書の中で次のように述べていた。
「米国が主導するイラク侵攻の結果、『政治的イスラム』(訳注: イスラム国家・イスラム社会の建設をめざす復興主義)への支持が拡大するとともに、イラク社会は深刻な分裂にみまわれ、国内で暴力的な紛争が生じやすくなろう」。
これは、昨年9月の『ニューヨーク・タイムズ』紙(記者はダグラス・ジールとデビッド・サンガー)が報じたものである。
2004年の12月には、NICは次のように警告している(ジール記者による上の記事の数週間後の続報)。
イラクその他の国々で今後発生しうる紛争のおかげで、あらたな世代のテロリストの誕生につながる、新兵勧誘の機会の増大、また、実戦訓練の場、技術的能力や言語コミュニケーション能力の鍛錬の場の拡大、等々が懸念される。彼らが『プロ化』し、政治的暴力それ自体が彼らにとって目的となる事態が起こり得る」。

 

もちろん、上級の政策策定者がテロ増大のリスクを犯すからといって、彼らがそのような結果を歓迎しているわけではない。ただ単に、他の政策目標と比較して、テロ抑止が優先事項のトップに上らないだけの話である。優先事項のトップに上る他の政策目標とは、たとえば、世界の主要なエネルギー資源を支配することである。

 

ズビグニュー・ブレジンスキー氏は、上級の政策策定者や分析家の中でとりわけ頭の切れる人間の一人であったが、イラク侵攻後まもなく、米『ナショナル・インタレスト』誌において、こう指摘している。
中東を制することは「欧州とアジアの国々に対する、間接的だが政治的にきわめて重要な影響力を持つことになる。彼らもまた同地域からのエネルギー輸出に依存しているからだ」。

 

米国がもしイラクを-----原油の確認埋蔵量が世界第2位であり、世界の主要原油供給国のひしめく地域のほぼ真ん中に位置するイラクを-----ずっと支配下に置くことができれば、米国の戦略的能力と影響力は、今後の「三極世界」における主要ライバルたちに対して、格段に高まるであろう。
「三極世界」とは、過去30年の間に徐々に形を整えてきた、米国を盟主とする「北米」、「欧州」、そして、南アジア・東南アジア諸国との結びつきを有する「北東アジア」の3つである。

 

上記の戦略的思考は合理的なものではある。人類の存続が、短期の影響力や富に比べ、ことさらに重要なものではないとすればの話であるが。それに、これは取り立てて斬新な考え方でもない。このテーマは歴史を通じてずっと鳴り響いてきた。核兵器の時代である今日が過去とちがうのは、賭け金が途方もなく高く積み上がっていることだけである。


CHOMSKY.INFO


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[その他の訳注・補足など]


タイトルの It's Imperialism, Stupid は、It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)という有名な表現のもじりである。
元の表現の It's the economy, stupid(肝心なのは経済だ、ボケ!)は、1992年の大統領選挙戦におけるクリントン陣営の合言葉で、国民の心をつかむのに有効なのは経済の話題であることをスタッフに周知徹底させるために使われた。
このセリフが有名になって以来、It's ~ , stupid のパターンは、パロディその他の形でメディアにしばしば登場する。

ウィキペディアの説明も参照↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/It%27s_the_economy,_stupid

 

なお、元の表現の It's the economy, stupid の It は文法的には「漠然と状況・事情をあらわす it」と解される(しいてこれを具体的に表現すれば、「この選挙戦を戦うにあたってキモになるのは~」ぐらい)。
一方、本タイトルの It’s Imperialism, Stupid の It は代名詞であって、本文中の話題である「イラク侵攻」を指す。

 

■補足・1
「ダウニング・ストリート・メモ」について。

今回のコラム訳出のために、念のためグーグルで「ダウニング・ストリート・メモ」を検索してみると、驚くべきことに、読売、朝日、毎日などの大手新聞その他、日本のいわゆる大手メディアのサイトは全然検索結果に現れない。
現れるのは大半が個人のブログである。

 

「ダウニング・ストリート・メモ」を別称の「ダウニング街メモ」あるいは「英首相官邸メモ」、「英国政府官庁街メモ」などと変えても検索結果の傾向は変わらない。

 

これほどあからさまに情報が抑制されている(あるいは報道統制がおこなわれている?)とは思っていなかった。
それとも、これは、私個人だけに表示される独自の検索結果なのだろうか。
本ブログの閲覧者は、各自でそれぞれ、検索結果のありさまを確認していただきたい。

 

(また、英語版のウィキペディアには Downing Street memo の項目と説明があるが、日本語版のウィキペディアには「ダウニング・ストリート・メモ」は見当たらない。
さらには、日本語版ウィキペディアの「イラク戦争」の説明には「ダウニング・ストリート・メモ」についての言及がない。はっきり言って、それがないイラク戦争の説明などほとんど無価値、無意味である。あきれるしかない)

 

■補足・2
イラク戦争の動機は石油を支配することである」といきなり断定すれば、馬鹿げた陰謀論のように聞こえるが、「広い意味での石油の支配」、「石油を介しての影響力の確保」(言い換えれば、米国の覇権の維持のための一手段)がイラク戦争の主要動機の一つであることは、米国のエリート支配層にとって暗黙の了解事項であった。
そのことは、本文中のブレジンスキー氏の言のほかに、たとえば、米連邦準備制度理事会FRB)の議長であったアラン・グリーンスパン氏の回顧録の一節にもはっきりと示されている。

「悲しいことに、誰もが承知していること-----イラク戦争はおおむね石油をめぐる争いだということ-----を認めるのは政治上、具合が悪いのだ」
グリーンスパン氏の回顧録『The Age of Turbulence』(波乱の時代)(ペンギン出版、2007年刊、463ページ)より)

 

チョムスキー氏は早くから、中東の動乱の主因の一つが石油資源の掌握であることをさまざまな文章で指摘していた。
当初は、一般人の中で、それを陰謀論と見なして嘲笑する向きもあったようである。もちろん、政府関係者が公的に認めるはずがない。陰謀論として相手にしないのが良策である。
これにからんで、チョムスキー氏に対する悪質な誹謗中傷がおこなわれたであろう。

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・番外編・1

 チョムスキー 時事コラム・コレクション・番外編・1

 

もしニュルンベルク諸原則を適用したら…

 

今回はコラムあるいはエッセイではなくて、ある集会での発言を文字に起こしたものであるらしい。
そういう理由で、本ブログでは、「番外編」としておいた。

内容は第二次大戦後の米国歴代政権・歴代大統領への批判。ニュルンベルク裁判と東京裁判の批判もふくむ。

(なお、くだけた席における発言のせいか、内容に事実誤認もしくは不正確と思われる箇所がある。末尾の「その他の訳注・補足など」を参照。また、そういう場合の常として、言葉のくり返しや論理的につながらない点なども見受けられる)

原文サイトは
https://chomsky.info/1990____-2/

初出は不明。

原題は
If the Nuremberg Laws were Applied…
である。

the Nuremberg Laws は、この場合、「ニュルンベルク諸原則」を意味する。
ニュルンベルク諸原則」とは、
第二次世界大戦後、ドイツのニュルンベルクで行われた国際軍事裁判で、裁判所条例および判決によって認められた国際法の諸原則」(日本大百科全書(ニッポニカ))
である。
侵略戦争や直接間接に侵略に関連する行為、集団殺害、一般人民に対する非人道的行為および戦争法規の違反を国際犯罪とし、責任ある個人は処罰されるべきこと」(同上)
を謳った。

(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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もしニュルンベルク諸原則を適用したら…


ノーム・チョムスキー

初出は不明。1990年頃のある集会での談話と思われる。

 

もしニュルンベルク諸原則を適用したら、第二次大戦後のアメリカ大統領は一人残らず絞首刑になっていたでしょう。
私がここでニュルンベルク諸原則に違反する行為とするのは、ニュルンベルク裁判において人々が絞首刑に処されるもととなった罪科と同じ種類の犯罪行為を意味します。また、ニュルンベルク諸原則はニュルンベルク裁判と東京裁判の双方に依拠するものとします。
さて、そこで、皆さんにはまずニュルンベルクや東京の裁判において、人々がいかなる罪科で絞首刑を宣せられたかをふり返っていただかなければならない。が、いったんふり返ってみさえすれば、この問題は寸毫の時間さえ要しません。
たとえば、東京裁判-----もっとも劣悪な裁判でした-----において被告であった軍将校の一人、山下奉文陸軍大将は、法的には自分の配下であるフィリピンの部隊が蛮行を働いたとの廉で絞首刑を宣せられました(戦争のごく終局に近い時期のことであり、現地との連絡は途絶えていました。戦争の最後の最後の段階で、フィリピン方面には多少の部隊が残って活動を展開していましたが、山下大将は彼らとの連絡を欠いていました)。とにかく、そういう次第で、絞首刑に処せられたのです。
さて、このような点について検討してみてごらんなさい。この点に限っても、死刑宣告をまぬがれる大統領は一人もいません。

しかし、ここで、ニュルンベルクと東京の軍事裁判の中核にもう少し近づいてみましょう。東京裁判がおこなわれた当時の米国大統領トルーマンに関してです。
東京裁判には、その任にふさわしい、自主独立的なアジア人の判事が参加していました。インドの生まれで、判事の中で国際法の素養を積んでいた唯一の人物でもありました(原注: ラダ・ビノード・パール判事を指す)。
彼は他の判事全員と意見を異にしていました。この裁判のいっさいがっさいに異議を申し立てました。
非常に興味深い、貴重な反対意見書を彼は作成しています。700ページにわたるものです。皆さんはそれをハーバード大学法学図書館で見つけることができます。私もそこで見つけました。もっとも、他の場所でも見つけられるでしょうが。すこぶる興味深い読み物です。
その判事は裁判記録を綿密に読み込みました。そして、私にはきわめて説得力があると感じられるのですが、この裁判が実に不合理なものであることを浮き彫りにしています。
彼は、大要、以下のような言葉で締めくくっています。
もし太平洋戦争において、ナチの犯した犯罪-----ナチ党員がそのためにニュルンベルク裁判で絞首刑を宣せられた犯罪-----に匹敵する犯罪があるとすれば、それは2度の原子爆弾投下である。そして、その種の事象はいっさい、当該の被告人たちの責に帰することはできない、と。
どうでしょう、筋の通った論だと私には思われます。当時の事情を考慮にふくめれば。
第二次大戦後、トルーマンギリシア国内で大規模な内乱鎮圧作戦を展開しました。約16万もの人間が殺害され、約6万人が難民となり、同じく約6万人が拷問を受け、既存の政治体制は解体され、右派政権が成立しました。米国の企業がなだれ込み、それを乗っ取りました。
これらのことは、ニュルンベルク諸原則の下では犯罪であると私は考えます。

さて、アイゼンハワー大統領についてはどうでしょう。
彼のグアテマラ政府打倒が犯罪であるか否かを論じてみてください。CIAが後押しする軍がいて、米国の脅しと爆撃等々のさなかで介入し、グアテマラの資本主義民主制の土台を弱体化しました。私には、これは犯罪だと思えます。1958年のレバノン派兵はいかがでしょう。私は事情に通じていませんが、皆さんは議論してみてください。たくさんの人々が殺害されました。イラン政府の転覆もやはり犯罪です。CIAが支援したクーデターによってそれは実現しました。しかし、アイゼンハワー大統領については、グアテマラの件だけで十分です。ほかにも数々あるとはいえ。

ケネディ大統領となると、むずかしい点はほとんどありません。キューバ侵攻はあからさまな先制的武力攻撃です。もっとも、それを計画したのはアイゼンハワー大統領でした。つまり、アイゼンハワーは、他国に侵攻する共同謀議に加わっていたということです。これもまた、彼が積み重ねた得点に加えておきましょう。
キューバ侵攻が失敗に終わった後も、ケネディは同国に大規模なテロ作戦をしかけています。それは実に熾烈きわまるものでした。まったく冗談ごとではありません。産業施設を爆撃して多数の死傷者が出ました。ホテルにも砲撃を加えました。漁船を沈めました。破壊工作をおこないました。後のニクソン政権の下では、家畜などを毒物で汚染することさえやりました。言語道断です。それから、ベトナムケネディベトナムに侵攻しました。1962年に南ベトナムに攻撃をしかけた。米国空軍を派遣して空爆を開始したのです。そう、ケネディについてはこれで十分でしょう。

ジョンソン大統領に関しては特に問題はありません。ドミニカ共和国への軍事介入を勘定に入れずにおいても、インドシナ戦争だけでもりっぱな戦争犯罪です。

ニクソン大統領も同様です。彼はカンボジアに侵攻しました。ニクソンキッシンジャーのペアによる1970年代初頭のカンボジア空爆は、クメール・ルージュの残虐行為と極端にへだたっているわけではありません。規模はいくぶん小さかった、けれども、かなりの差があったわけではない。ラオスについてもそうです。ニクソンキッシンジャーに関しては、ほかにいくらでも挙げることができます。悩むような事情はありません。

フォード大統領は在任期間が非常に短かった。そこで、たくさんの犯罪行為に手を染めるヒマがありませんでした。けれども、どうにか大きなものを一つやり遂げました。インドネシア政府による東ティモール侵攻を支援したのです。それはジェノサイド(特定民族殲滅)に近いものでした。つまり、これと比べるならば、フセインクウェート侵攻などはささやかなパーティーのように思えるレベルです。米国はこの東ティモール侵攻を確固として支持しました。外交面での支援、軍事的に必須の支援はいずれも主に米国が担いました。これはカーター政権にも引き継がれました。

カーター大統領はアメリカの大統領の中ではもっとも非暴力的な人間でした。とは言え、私が思うに、はっきりとニュルンベルク諸原則に反するふるまいをいくつかしています。たとえば、東ティモールに対するインドネシア政府の残虐行為がまさしくジェノサイドの域に達しようとしていた時に、インドネシアへの米国の援助はカーター政権の下で増大しました。それは1978年にピークを迎えますが、残虐行為のピークもまた同じ時期なのです。カーターについては、これでおしまいにしましょう。ほかにいろいろ挙げられるにせよ。

レーガン大統領-----彼については問題ありません。という意味は、中米の件だけで話が済むからです。イスラエルによるレバノン侵攻を支持した件も、死傷者数や破壊の規模の点で、これまたフセインの所業をごくちっぽけなものに思わせるものです。これでたくさんです。

ブッシュ大統領はと言えば、あれこれ論ずる必要があるでしょうか。レーガン政権時代に国際司法裁判所の判決もありました(訳注: いわゆる「ニカラグア事件判決」)。その中で「不法な武力行使」と表現されているふるまいに関し、レーガンとブッシュの両氏が非難されています。

要するに、皆さんは米国大統領の幾人かについてあれこれ論じることは可能ですが、結局のところ、相当に強力な主張が成立するでしょう-----もしニュルンベルク諸原則に、つまり、ニュルンベルク裁判と東京裁判に照らしてみれば。そして、その裁判において人々がどのような咎で糾弾されたかを問うてみれば。私が思うに、米国の大統領は十分に絞首刑に値するのです。

しかしながら、同時にまた、ニュルンベルク諸原則に対しては、きびしい目を向けるべきであることも言っておかなければなりません。ニュルンベルク諸原則が高潔、厳正、等々のお手本であるかのごとく言うつもりは私にはありません。
一つには、それは事後法、事後の対応でした。ニュルンベルク諸原則に反する行為とは、戦争が終わってから、その勝者によって犯罪と見なされたものでした。この点だけでもすでに疑問を抱かしめます。米国大統領の件に関しては、事後の対応ということにはなりませんが。
また、何をもって「戦争犯罪」と見なしたのか、とみずからに問うてみなければなりません。ニュルンベルク裁判、東京裁判において、どのようにして戦争犯罪であるか否かが決定されたのか。その答えはまことに単純でありました。そして、あまり得心のいくものではありません。
あるモノサシがありました。言わば実際的な運用基準といったものです。もし敵側がそれをおこない、われわれの側がそれをおこなったことを敵側が示せなければ、それは戦争犯罪ということになりました。そういう次第で、人口密集地たる都市への爆撃などなどは、戦争犯罪とは見なされなかった。なぜなら、ドイツや日本よりもわれわれの方が数多くそれをおこなったからです。そういうわけで、それは戦争犯罪ではない。東京をガレキの地に変じたい? ところが、東京はすでにガレキの地と化していました。そこで、もう原爆を落とすことができない。落としたところで何も変わりがないからです。東京に原爆が落とされなかったのはまさしくそれが理由です。原爆投下自体は戦争犯罪ではない。なぜなら、それをおこなったのはわれわれだからです。ドレスデン爆撃も戦争犯罪ではありません。われわれがやったからです。
ドイツの海軍元帥、カール・デーニッツ氏は、民間商船を沈めたとかなんとかの廉で罪に問われました(同氏は潜水艦の艦長か何かでした)。その時、弁護側の証人として、米海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督が引っぱり出されました。提督は、米国もドイツとまったく同じようなふるまいをしたと証言しました。というわけで、デーニッツ氏は窮地を脱した。この点では、氏は無罪放免となったのです。
実際、もし皆さんが裁判の記録をすみずみまで丁寧に目を通してごらんになったら、得心がいくことでしょう。戦争犯罪とは、われわれは相手の責任を追及することはできるが、相手はそうできない、そういう類いの犯罪行為の謂いである、と。さて、そういうことで、この点もまた人の心に疑問を抱かしめます。

実際のところ、この点に関しては、興味深いことに、関係者がごくおおっぴらにそれを口にしており、しかも、それには理があると見なしているのです。
ニュルンベルク裁判の主席検事はテルフォード・テイラー氏でした。ご存知の通り、まっとうな人物です。同氏は『ニュルンベルクベトナム』なる著作を上梓しました。その中で、ベトナム戦争においてニュルンベルク諸原則にかかわる犯罪行為があったかどうかを探究しています。予想されることながら、否というのがその答えです。けれども、同氏がニュルンベルク諸原則をどのように了解しているのかは、興味深い問題です。

戦争犯罪とは今、私が述べたようなものでした。実を言えば、そういう捉え方を私はテイラー氏から拝借しているのです。もっとも、同氏は別にそういう捉え方を批判の意味をこめて述べているわけではありません。同氏が言うには、とにもかくにも、それがわれわれのやり方だった、そしてまた、そういう風にやるべきことだった、ということです。
これについては、『イェール・ロー・ジャーナル』に論文が載っています[原注: 『レビュー・シンポジウム: 戦争犯罪、国際問題における力の支配』。『イェール・ロー・ジャーナル』巻80、ナンバー7、1971年6月]。この論文は一般書籍にも再録されています[原注: チョムスキー著『For Reasons of State』(パンテオン社、1973年刊)の第3章]。興味がある方は読んでみてください。

ニュルンベルク裁判、とりわけ東京裁判に関しては、多くの疑問が発せられてしかるべきだと私は思います。東京裁判にはおかしな点がいろいろありました。東京裁判で罪を問われた人々のやったことは、罪を問うた側の人間の多くもやったことでした。
また、サダム・フセインの例とまったく同じように、アメリカは、彼らのおかした他の残虐きわまる行為の数々を気にとめませんでした。たとえば、1930年代後半に日本軍がおこなったいくつかの無道なふるまいなどです。それらに米国は特に関心を寄せなかった。米国が気にかけていたのは、日本が中国の市場を独占する方向に動いていたということでした。それは許されなかった。しかし、南京における数十万の人間の殺戮その他の残虐行為はそうではない。それはたいした問題ではなかったのです。


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[その他の訳注・補足など]

■原文中の事実誤認または不正確と思われる箇所その他について。

たとえば、原文に出てくる Tokyo trials は通常「東京裁判」(または「極東国際軍事裁判」)と訳される。
しかし、冒頭部分で言及されている山下奉文大将が裁かれたのは「マニラ軍事裁判」であって、これはふつう「東京裁判」にはふくまれない。
チョムスキー氏の勘違いであるか、あるいは、ここはチョムスキー氏独自の捉え方で、Tokyo trials を、「東京裁判を代表とするが、それにとどまらず、第二次世界大戦に関する、極東アジアでのすべての軍事裁判」という意味での、つまり総称として、用いているのかもしれない。

しかし、そのような小さな瑕疵があるとしても、チョムスキー氏の発言の主旨-----第二次大戦後の米国歴代大統領は、ニュルンベルク諸原則にしたがって裁けば、全員が絞首刑を宣せられておかしくない重罪人(たとえば戦争犯罪人)である-----には、もちろん、本質的にはなんら影響をおよぼさない。

気軽な席での発言ということで、その他の小さな瑕疵については、煩をきらって、これ以上注釈はつけない

 

■米国歴代政権による悪辣なふるまいは、ネットのウィキペディアなどで、その概要を容易に知ることができる。

たとえば、

アイゼンハワー政権下の「PBSUCCESS作戦」(ピービーサクセスさくせん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/PBSUCCESS作戦

ケネディ政権下の「マングース作戦」(または「キューバ計画」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/キューバ計画

ジョンソン政権下の「パワーパック作戦」(アメリカ軍によるドミニカ共和国占領)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ軍によるドミニカ共和国占領_(1965年-1966年)

レーガン政権下の「ニカラグア事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ニカラグア事件

 

■今回のチョムスキー氏の談話は、1990年頃のものである。なので、言及されている米国大統領は、第41代のブッシュ大統領で終わっている。
しかし、その後、任期を終了した3人の大統領-----クリントン、第43代のブッシュ、オバマ-----のそれぞれもこのチョムスキー氏の批判をまぬがれるわけではない。
クリントン大統領は1998年のイラクへの空爆スーダンへのミサイル攻撃、1999年のユーゴ空爆、第43代ブッシュ大統領アフガニスタン侵攻と、もちろん、イラク戦争オバマ大統領はパキスタンでのミサイル攻撃、リビア空爆、ドローン(無人攻撃機)を使用した大規模な暗殺作戦、等々、いずれも戦争犯罪人たる資格に欠けていない。

 

■最後の段落中の
「また、サダム・フセインの例とまったく同じように、アメリカは、彼らのおかした他の残虐きわまる行為の数々を気にとめませんでした」
について。

ここでサダム・フセインの名前が出るのは、フセインのおこなった化学兵器攻撃を念頭に置いてのことだと思われる。

サダム・フセインは、1988年にクルド人が多数を占める地域で化学兵器を使用して住民を殺害したとされる(ハラブジャ事件)。しかし、米国政府と英米大手メディアからは声高の非難の声は発せられなかった。当時の米国にとっては、イランが敵対国であり、イランと対立するイラクは強力なパートナーだった。

 

チョムスキー氏はまた、昔からさまざまなコラムやエッセイ、著書などで「アメリカは世界最大のテロ国家である」と述べてきた。
こういった見方もしくは事実は、多少もののわかった人々の間ではすでに共通認識になっていると言ってよい。

たとえば、つい先ごろ自裁した、戦後保守派の代表的論客である西部邁氏は、絶筆となった『保守の遺言』の中で、ある主張の前提的事実の確認という形で、ごくあっさりと次のように書いている。

「だがここで大問題が生じる。世界で最も侵略的な国家はどこかと問われれば、心あるものはかならずや「アメリカだ」と答えるであろう。アメリカン・ネイティヴやジャパニーズ(の一般人)にたいする大量虐殺のことまで戻らずとも、ヴェトナム戦争イラク戦争、シリア戦争、さらにはエジプト、リビアスーダン、イエーメン、ウクライナなどにおけるアメリカの関与を含めると、アメリカほど侵略的な国家は世界史に類をみないと断言せざるをえないのである。」(『保守の遺言』(平凡社新書)の50ページより)

こういう認識がもし世界に広く行き渡っているとしたら、その功績の少なくとも一部は、チョムスキー氏の言論活動に帰することができるであろう。

 

チョムスキー氏は、米国政府のもっとも苛烈な批判者であると言える。そのためか、一部のアメリカ人からひどくきらわれている様子である。しばしば「反米」だとか「売国奴」などと非難される。

そういう声に対しては、チョムスキー氏自身の以下のような言葉が反駁の一つになるであろう。

「私自身の関心は主に自国政府によるテロ行為と暴力に向けられています。それは2つの理由によります。一つには、アメリカが世界の暴力の中でより大きな割合を占めているからです。しかし、これよりもはるかに重要なわけがあります。すなわち、母国に関しては、自分がなにがしかのことができるということです。ですから、たとえアメリカが世界の暴力のうちの大部分ではなく、ほんの2パーセントしか責めを負うべきでないとしても、その2パーセントに私はまずもって責任を負うべきでしょう。これは単純な倫理的判断です。つまり、おのれの行動の倫理的価値は、その行動から予想される影響や結果にかかっています。他国の非道なふるまいを非難することはきわめて容易です。しかし、その倫理的価値は、18世紀に起こった残虐行為を非難するのと同じようなものでしかありません。」
(『On Power and Ideology』より)

 

チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

chomsky.info

 

言語学の大御所であるノーム・チョムスキー氏はまた、時事問題に関する優れたコラムニスト、エッセイストでもある。

本ブログでは、チョムスキー氏のウェブサイト

https://chomsky.info/
から、特に心に残るコラム、エッセイ等を選んで訳出・紹介する。

 

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チョムスキー 時事コラム・コレクション・1

侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

 

原文サイトは
https://chomsky.info/198912__/

初出は1989年。

原題は

Invasion Newspeak: U.S. & USSR

この Newspeak(「新語法」または「ニュースピーク」)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する人工言語
「その目的は、国民の語彙や思考を制限し、党のイデオロギーに反する思想を考えられないようにして、支配を盤石なものにすることである」(ウィキペディア)。

(なお、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)

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侵攻の「新語法」-----アメリカとソ連

ノーム・チョムスキー

初出: 『FAIR』(訳注1) 1989年12月

 

1983年の5月、驚くべき出来事がモスクワで起こった。恐れ知らずのニュースキャスター、ウラジミール・ダンチェフ氏がラジオ放送の中でソ連によるアフガニスタン侵攻を非難したのだ。その計5日にわたる5回連続の放送において、同氏はまた、アフガニスタンの反政府勢力に抵抗を呼びかけた。
欧米では、これに対して大きな称賛の声が湧き上がった。ニューヨーク・タイムズ紙(1983年8月6日付け)は次のような的確な論評を載せた。これはソビエト政府の広報路線からの離脱であり、ダンチェフ氏は「『二重思考』と『新語法』の準則に反旗をひるがえしたのだ」、と(訳注2)。
ダンチェフ氏は番組から降ろされ、精神病院に送られた。元の番組に数ヵ月後復帰した際、政府高官はこう述べたと伝えられる。「同氏は罰せられはしなかった。病人を罰することはできないからだ」。

 

ダンチェフ氏のラジオ放送に関してとりわけ驚くべきことは、たんに同氏が侵攻を非難し、抵抗を呼びかけたことにとどまらず、侵攻を「侵攻」とストレートに表現したことであった。
ソビエト政府の教義体系では、「ソビエトアフガニスタン侵攻」などという事象は存在しない。存在するのは、CIAやその他の好戦勢力に後押しされ、隣国パキスタンの安全地帯から軍事活動を展開しているならず者たちが相手の、「ソビエトによるアフガニスタンの防衛」である。われわれは協力を請われたのだ、とソビエト政府は言う。そして、厳密には、ある意味でこの言い分は正しい。
しかし、英エコノミスト紙はおごそかにこう宣する(1980年10月25日付け)。
「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、協力を請うた政府がソビエト自身の据えたものであってみれば、その政府が正当性を有すると主張するのはどうしても無理があろう。それができるとすれば、オーウェルの「新語法」の世界においてのみである。

 

ダンチェフ氏をめぐる事件については、欧米の報道に自己満悦の気味をうかがうことができる。欧米ではこんなことは起こりようがないのだ、というわけである。米国の侵攻をそのまま「侵攻」と表現した、あるいは、犠牲者の側に抵抗をうながした、等々の理由で米国のニュースキャスターが精神病院に送られたことなど、いまだかつてなかった。
とは言うものの、なぜそれが起きなかったかは、もう少し深く探求してみてもよいだろう。
一つの可能性として考えられるのは、ダンチェフ氏の勇気にならうジャーナリストは、米国の主流メディアには一人もいなかったということである。あるいは、彼らは、米国によるアフガニスタン等への侵攻を事実そのままに「侵攻」であると認識してさえいなかった、ということである。

 

次のような事実を考えてみてもらいたい。
1962年に米国は南ベトナムを攻撃した。その年、ケネディ大統領は米国空軍を派遣し、南ベトナムの農村部を爆撃したのである。その農村部には、同国の人口のおよそ80パーセント強が暮らしていた。この攻撃は、数百万の人々を強制収容所-----「戦略村」と呼ばれた-----に囲い込むことを企図した戦略の一環であった。これらの人々は有刺鉄線と武装衛兵に囲まれることになっていた。そのおかげで、ゲリラから身を「守る」ことができるというわけなのだ。もっとも、当の人々の大半はゲリラを支持していたのだが。

 

南ベトナムに対する米国のこの直接的攻撃は、以前の植民地の再支配をもくろむフランスへの支援、1954年の「和平プロセス」の中断、南ベトナム市民に対するテロ攻撃などの後を受けておこなわれたものである。すでにテロ攻撃によって約7万5000人が死亡しており、ベトナム国内には抵抗の気運が醸成されていた。それは、1959年以降、北ベトナムの後押しを受け、米国が成立させた南ベトナム政府の崩壊をもたらす恐れを招来した。
直接的軍事介入を開始して以来、米国は平和的解決のためのあらゆる方途にあらがい続け、1964年には、南ベトナムへの地上軍の投入を検討し始めた。実際の地上侵攻は1965年の2月に始まった。あわせて北ベトナムへの爆撃(訳注:いわゆる「北爆」)も開始し、南ベトナムにおける爆撃の規模も拡大した。それは、より有名な「北爆」のそれの3倍に相当する。米国はさらにラオスカンボジアにも戦線を広げた。

 

われわれは協力を要請されたのだ、と米国政府は抗弁した。だが、エコノミスト紙がアフガニスタン侵攻の際に洞察したように(ベトナム侵攻の場合は不問に付したが)、「侵攻はどうしたって侵攻である-----何らかの正当性を有する政府によってそれが請われないかぎり」。
そして、オーウェルの「新語法」の世界でないならば、米国が成立させた傀儡国家が正当性を持たないことは、ソ連が擁立したアフガニスタン政権に正当性がないのと同様である。
米国政府自身でさえ、ゴ・ディン・ジエム政権に正当性がないことを認識していた。それどころか、これ以降も、政権指導者がテロ作戦拡大という米国の意向に進んで沿わない風であれば、失脚させられる-----首をすげ替えられる-----のが一般であった。
政治的解決はあり得ないことは、戦争の始めから終わりまでずっと、米国政府の公然たる認識であった。それはごく単純な理由によっていた。選挙をおこなえば「敵側」があっさりと勝利するだろうからである。したがって、米国はそんなことを許すわけにはいかなかった。

 

過去半世紀の間、私は主流メディアや主要学術文献を渉猟して、米国による南ベトナム侵攻(あるいはインドシナ半島における武力攻撃)について多少でも言及したものを見つけ出そうと努めてきた。だが、無駄であった。私が見出したものと言えば、外部勢力(同じベトナムなのであるが)から支援を受けたテロリストたちに抗しての、米国の「南ベトナムの防衛」であった。ハト派の主張によれば「賢明ではない」防衛の努力であった。

 

要するに、米国にはダンチェフ氏のような人物は存在しない。主流派のジャーナリストや学者の中には、侵攻を文字通り「侵攻」と呼ぶことのできる人間は存在しない。侵攻という事実を認識している人間さえいないありさまである。米国のジャーナリストが南ベトナムの人々に対して米国の侵攻にあらがうようおおっぴらに呼びかける、などという図は想像もつかない。たとえそういう人間が現れたにしても、彼が精神病院に送られるという事態は起こらなかったろう。とは言え、職業上の地位や名声を彼が保てたかどうかは疑わしい。

 

ここで一言しておきたいのは、米国では真実を語るのに勇気はいらない、たんに正直であればよい、ということである。米国市民は、国家暴力に対する恐れを釈明の言葉にすることはできない-----全体主義国家の下で党の方針にしたがわなければならない人間ならば、それを理由にできるであろうが。


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[その他の訳注・補足など]

■その他の訳注
訳注1.
初出の掲載元の『FAIR』は米国のメディア監視団体。

訳注2.
ここの「二重思考(またはダブルシンク)」は、タイトルにも使われた「新語法」と同じく、オーウェルの『1984年』に登場する言葉。

ジョージ・オーウェルの造語で、小説"1984"の仮想言語 Newspeak の中心的な概念。全体主義国家で民主主義は不可能であることと、国家が民主主義の擁護者であることの二つを同時に信じることなど、国家を維持するために必要な思考方法とされる」(英辞郎)。

 

■補足・1
本文章の内容は「米国政府・大手メディア・知識人に対する批判」といったところ。
取り上げられている題材は、政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳、等。

この「政府や大手メディアなどによるプロパガンダ、印象操作、洗脳」等は、チョムスキー氏の生涯をつらぬく大きなテーマの一つであると言ってよい。

それは、氏のこの方面の代表作たる
『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』エドワード・ハーマン氏との共著)
に結実している。

(邦訳は、
『マニュファクチャリング・コンセント-----マスメディアの政治経済学 1』
『〃 2』
トランスビュー社、中野真紀子訳)
の2巻本で出ている)

 

■補足・2
自国政府やメディアによるプロパガンダ、印象操作、洗脳などにチョムスキー氏は若い頃から敏感であった。

来日時のインタビューの一節にもそれはうかがえる。一部を以下に引用しておきます。

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インタビュアー: 日本とのかかわりについてうかがいたいのですが。

チョムスキー: 日本については1930年代からずっと興味を持っていました。満州や中国における非道な犯罪行為について聞き知ったからです。1940年代前半には、私は10代の若者でしたが、米国の人種差別的で国粋主義的な反日プロパガンダの熱狂にまったく呆然としました。ドイツ人は悪者とされましたが、それでもいくらかの敬意を持ってあつかわれました。結局のところ、彼らは色白のアーリア人に属しています-----米国人の抱く自身のイメージとちょうど重なるような。一方、日本人は虫けらにすぎず、アリのように踏みつぶされる存在として受け取られていました。日本の各都市に対する爆撃は十二分に報じられていました。それを読めば、重大な戦争犯罪が進行中であることは明らかでした。多くの点で原爆よりも深刻なものです。

インタビュアー: こういう話をお聞きしました。あなたが広島への原爆投下、そしてそれをめぐる米国市民の反応に非常なショックを受け、まわりの人々から離れて、一人になって悲嘆にくれた、と。

チョムスキー: そうです。1945年8月6日のことです。私は子供を対象とするサマー・キャンプに参加していました。拡声器を通じてヒロシマに原爆が落とされたことが伝えられました。全員が耳を澄ませて聞いていました。が、すぐに自分たちの次の活動に取り組み始めました。野球やら水泳やらです。誰も何も言いませんでした。私はショックでほとんど口がきけない状態でした-----原爆投下という恐ろしい出来事とこれに対する無反応の両方のおかげで。『だからどうしたっていうの? またジャップがおおぜい焼け死んだっていうだけ。それにアメリカは原爆を持ち、よその国は持たない、すばらしいじゃないか。僕たちは世界を支配することができる。それでみんなハッピーさ』。こんな調子です。
その後の戦後処理についても、私は同様にかなりの嫌悪感を持ちながら注意を払ってきました。もちろん、当時は、今自分がしていることを予想してはいませんでした。けれども、十分に情報は得られたのです。「愛国的なおとぎ話」を割引して聞ける程度の情報は。

 

(出典: http://zcomm.org/znetarticle/truth-to-power/

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